ここでは2003年から2004年まで連載していたコラムの傑作選を紹介致します。

第11回 定番だったあの頃の遊び 2003年10月12日

先週の日曜(10月5日)に友達を誘ってドッジボールのイベントに参加した。当然日本と同じルールだと思って、懐かしむ気持ちでゲームにサインアップしたのだが、ルールが全く違っていて かなり戸惑った。そのルールは後で書くが、今回はドッジボールを含めて自分たちの周りで流行っていた小、中学校の頃の遊びを3つほど紹介してみたいと思う。

「ドッジボール」
僕の小学校では2時間目と3時間目の授業の間に25分の休み時間があった。雨でも降ってない限り みんなは校庭に出て遊んだ。当時、僕たちの間ではほとんどの場合ドッジボールをやっていた。ルール説明が不要なくらい有名な球技である。内野、外野に分かれて(何故か僕たちはこう呼んでいた)ボールを投げあい、ぶつかったら(ただし頭はセーフ)外野へ(それで元々外野にいた人は内野へ)。それで内野にいる人が全員アウトになったら試合終了。シンプルで男子女子分け隔てなく遊べる球技だった。さて前述のアメリカバージョンはどうかというと、まず2チーム全員が外野に一列に並び、笛の音と同時に真ん中に置かれている 赤と黒(それぞれ3つずつで合計6個)のボールをいち早く取りに行く。この時誰がそのボールを取りに行って、仲間にいち早くパスするかが勝負の分かれ目となる。日本のドッジと明らかに違うのは ボールを投げて、もし相手に取られたら、その投げた人がアウト。アウトになったら外で一列に並び、自分のチームメートが相手のボールをうまくノーバウンドで取ったら、その並んでいる前の人からチームに復帰できるという、文章で書くとややこしくなるぐらい違う球技であった。僕は小学校時代に慣れ親しんだドッジボールの方が断然いい。この方が勝負しているというイメージが強く、ゲームが白熱するという感がある。

「手打ち野球」(略して「手打ち」)
これもルール説明がいらないぐらい有名だが、念のためルールを・・・というより、簡単に言えばバットを使わないで手で打つ野球である(そのまんま・・・)。使用球はバレーボールぐらいの大きさでのボールが適当。試合開始前は必ず「と~りっぺ」をする事が僕たちのルールだった。「と~りっぺ」とは、うまい人2人が「と~りっぺ」の掛け声と共にじゃんけんをし、勝ったら自分のチームに入れたい人を優先的に順に決めていく方法である。これはドッジでも多用する一般的なチームメンバーの割り振り方法だった。さて試合だがピッチャーは絶対にワンバウンドボールを投げ、バッターは利き腕で打つ。しかしこぶしで打つと腕に響くので手首で打つのが一番良い。バントもできるので、基本的には普通の野球と何も変わりはないが、ドッジボールと違って多人数が必要な球技である。僕たちはドッジとこの手打ち野球を毎日交互にやるくらいハマっていた。サッカーが今ほど主流じゃない時代の定番の遊びだっただろう。

「定戦」(じょうせん)
定規戦争、略して「定戦」。これは室内でやる遊びである。必要なのは手持ちの定規とペン(もしくはシャーペン)それと戦場となる誰かの机。このゲームはやる人数は多くても少なくてもいい(最低2人以上)。まず定規を好きな場所に置き、一人ずつ持参のペンで弾く。そして相手を机の上から落としたら勝ちである。もし定規の半分以下の長さだけ机からはみ出している場合、ペンを使って自分の定規を裏返し、相手の定規の上に乗せることもできる。乗せられた人は3回以内に脱出しないと負けとなる。基本的なルールは以上だが、色々な特殊技もある。例えばちょっと机をはみ出している定規をペンで最後尾を押さえつけ(前部は浮き上がる)、思いっきり弾く「発射台」。もし自分の定規が机から少しはみ出している状態で 複数の定規が自分の定規に乗っかっていて脱出不可能な場合、はみ出している部分を思いっきりペンで叩いて自分の定規もろとも場外へ吹っ飛ばす 自殺技「メガンテ」(当時ドラクエが男子の間で人気があったのでこう呼んだ。「道連れ」と呼ぶ人もいた。)。また、同じ状況で定規を弾かずペンで自分の定規を押さえつけ、相手の定規を次々に滑り落とす「うっちゃり」。人それぞれ色んな技を使って、いかに最後まで机の上で生き残るかを競い合うゲームである。この定戦、定規が大きければ有利というわけではない。30cmで面積も厚さもある定規は確かに打たれ強いし、攻撃力も強いが、他の定規に一度乗っかられると脱出が難しいという難点もある。逆に短い定規(10cm以下)は小回りがきくが簡単に軽く吹っ飛ばされてしまう確率が高い。やはり文房具屋で売っている市販の15cmぐらいの定規が一番良い。試合会場はテーブルでやると、なかなか勝負がつかないので やはり学校机ぐらいが適当である。これは唯一中学校でも流行っていた。

以上3つが僕が通っていた小中学校で流行っていた遊びである。僕が行っていた学校は公立なので、校則によって持ち物が制限されていた。他の学校みたいに持ち物検査などは一切なかったが、定番のトランプなどのカードゲーム類はもちろん禁止。ウォークマン、雑誌などもダメだった。だから外で球技、内では定戦・・・というような遊びが流行ったのかもしれない。定戦は主に男子のみでやっていた。

ドッジボールは中学でも体育の授業でやった。しかし、ルールは日本のルールでも小学校と大きく違うのは 一試合10分ぐらいで、しかも1分ごとにボールが一つずつ増えていき、最大8個で行われるすごいドッジだった。このドッジはいつもやっていたわけではないが、たまに生徒の希望で行われていた。

手打ちは完全に小学校時代のみの遊びで、定戦はさっきも言ったとおり 小学校時代に比べて規模が小さかったが一部の男子で根強く好まれていた。

その他にも流行るほどでもなかったが「暗闇泥警」(体育館を真っ暗にして定番のドロケー)、キックベース(手打ちと違って足をバット代わりにする野球)、壁当てサッカー(壁をゴールとするインドア・サッカー)など色んな遊びをしていたと思う。現在の小学生たちの間でこれらのうち、いくつの遊びを今でもやっているかは分からない。多分ほとんど遊ばれていないだろう。都会では昔に比べ外でできる遊びも場所も限られている。公園でキャッチボールすらできない都会の子供たちはかわいそうだと思う。アメリカ人の友達が「そんなの、アホみたい」。と言っていた。学校の校庭ではそういう球技の制限などあまり無いと思うし、まさか定規持込禁止などの校則などないと思うので、是非今の小学生たちにお勧めたい遊びである。面白さは保障してもいい。

大人になった今でも、あの頃の遊びが一番楽しかったと信じている。

第12回 明るさを奪われた学年 2003年12月5日

「生まれてくる子供は親を選べない」これは小学生の担任に関しても同じ事が言える。6年間という長期にわたる小学校生活の中で担任は子供たちに大きな影響を及ぼす。もし運が良かったら楽しい学校生活を送ることができるが、逆の場合、子供たちにとっては悲劇である。

僕は今まで良い先生ばかり紹介してきた。しかし今回はダメな先生を僕の小学校生活を振り返りながら紹介したいと思う。

僕の小学校では1,2年 3,4年、5,6年と2年おきに担任が変わった。1~4年生までを受け持ってくれたS(両方ともイニシャル同じ)という先生方は素晴らしい方で、「恩師」と呼べる先生であった。クラスは2組あったので計4人の先生がいたわけだが、他の2人の先生も良い先生であった。

僕たちの学年は1年生の時から仲が良い生徒が多く、「すごく明るい学年」と呼ばれ 他の先生方からも「是非、担任に受け持ちたい」という声が上がるほどであった。

しかし僕たちの学年が5年生の時、その「明るい学年」の僕たちを見事打ち砕いてくれた担任がいた。新任のSという先生(よく考えると僕を受け持った先生3人とも同じイニシャルなので、同じように書くと先の二人の先生方に失礼なので 以下STと呼ぶことにする)で、学校に赴任して来て初めて受け持ったのが、僕のクラスだった。

STは背が高いというだけで特に他に特徴はなかったが、たった一つ言わせてもらえば、子供たちに対しても指導力がなかった。その例をいくつか紹介しよう。

まず、僕たち生徒の欠点を見つけては 他の生徒の前で糾弾する事があった。言葉を悪く言えば「見せしめ」である。少し勉強が遅れていたり、行動がとろかったり、少しでも言うことを聞かない、もしくは自分の気に入らないことをするとSTの的になった。

特にクラスのK君はよく怒られていたので、彼を知る他の友達のお母さん方はSTを非難しK君に同情した。またM君が消しゴムを切り刻んで遊んでいた時、STは彼を呼びつけ叱り飛ばした。その内容がまた変なもので「この消しゴムを作った人の気持ちを考えたことがあるか!!」などと言っていた。僕たちは影で「工場で生産してるんだよなあ」などと言い合っていたこともあった。

とにかく特に怒る必要がないのに、何かと理由をつけてはキレていた時があった。

また授業参観の時、僕たちのクラスは体育で外でサッカーをやったことがあった。2チームに分かれて 親の前で一所懸命プレーするのは どこの学校でも行われている体育の授業であったが、ここでも事件は起こった。

T君が接触プレーで転倒して倒れこんだのに、フィールドの外に出してほったらかしにしたのである。STは痛がるT君に「たいしたことない」と一言だけ言って授業を続けた。しかし、T君が痛がるので 周りの親たちが彼を病院に連れて行った。そして彼が骨折していた事が後で分かった。普通だったら すぐに試合を止め、ケガした生徒に付き添って保健室に連れて行くのが妥当なのだが、そういう機転が利かない、というより状況判断ができない先生であった。しかも親にそれをさせるなんて信じられない話である。当然親たちも呆れていた。

僕の読書感想文が区に推薦された時、STは僕に書き直しを夕方遅くまで無理やりさせた。友達と会う約束をしていた僕は一刻も早く帰りたかったのに STは自分の書いた推薦状を僕の前でヒラヒラと見せ、半ば強制的に居残りをさせた。やり方としては非常に汚いと 今となって思う。なぜ、理由をきちんと説明させるなり、次の日に残り半分をさせるなどの手を打てないのかと理解に苦しむ。

またSTは僕たちが6年生の時 中学受験をする生徒の内申書に 書かなくてもいい持病(喘息など)をご丁寧に書いて何人かの生徒の受験を失敗させたり、朝の音楽集会で「低学年の生徒の為に流した曲に乗って一緒に踊らなかった」などと言って 僕たちを怒鳴ったこともあった。僕の小学校では5,6年生は鼓笛隊と言って 朝の集会や運動会などの行事で楽器を演奏していた。集会中はそれらを常にそばに置いていなければならなかったので、みんなで踊るスペースなんて当然ない。それに何より 「なぜ6年にもなって、1年の音楽にあわせて踊らなければならないんだ!」というのが僕たち大多数の意見であった。(もちろん全学年で歌ったり踊ったりする行事ならきちんと参加していた。)

STが決めた数々の取り決めの中で一番おかしいのは、「給食前に喋ったら、「いただきます」と同時に後ろに立たせる」だろう。給食というのは生徒にとって楽しい時間のひと時である。みんなお喋りしたい。彼は生徒が騒いで揃って始められないという理由から この決まりを設けたのだが、どう考えても非常識である。食事中も大声で喋ることは許されなかったので(口に入れた食べ物が飛んだり、なかなか食事が進まなくなるから)みんな小声で喋っていた。まるでクラス全体に不幸が起こった後の食事の風景がそこにあった。

あちこちでかう生徒の反感は ストレスになり、やがて「明るい学年」を豹変させる事になる。STによって欠点を指摘された生徒がいじめられるようになったり、あんなに仲が良かった学年に不和協音が起きるようになる。

6年生の頃には「誰もが受け持ちたいと思う 憧れの生徒たち」の面影は消えていた。全てSTが来てから何かが変わったと思う。もう一つのクラスも新任(僕たちが5年時)のOという女の先生で これも評判は悪かった(特に女子に)。ただ、僕はO先生のクラスの事は良く知らない。

僕たちの学校は毎年、学年で音楽会に行っていた。ある親が「この子供たち、4年生の時までは講堂に行くまであんなに楽しく喋って歩いていたのに なんでたった1年で誰も喋らないような学年になるの?」この証言でも分かると思うが、ST(多分O先生も含めて)は、僕たちの中にあった何かを壊して、奪ってくれた。子供の代名詞とも言える「明るさ」というものを・・・。

小学校を卒業して10年以上たった今でも 僕たちの間で彼の評価は最悪である。「5,6年の時に良い思い出がない」というのが合言葉のようになっている。対照的に1~4年の時に受け持ってくれた二人の先生方は みんな口を揃えて「すごく良い先生だったよねえ」と言う。親たちも同じ考えで、僕たちの卒業後、先生方との懇親会では決してSTを呼ばなかった。

僕たちが卒業した 次の年STは担任を外されたらしい。親や子供の評判を聞けば当然の措置だったと思う。小学校の担任というのは、子供たちが一番多感な時期に接することになる。その子供たちを相手にいかにまとめるかが重要である。STのように個人の欠点を槍玉にあげるのではなく、生徒一人一人を良く見て、長所を発見しそれを伸ばす事が大事なのではなかろうか?多少の失敗などを受け入れる包容力も必要である。STは両方とも欠けていた。ようするに先生として、また子供たちを預かる担任としての能力が欠如していたとしか言わざる負えない。もしSTがもう少し大人だったら、
僕たちの受ける影響も違っていただろう。

幸い僕はこの2年間以降、嫌な先生に会うことはなかった。中学校、高校、大学と素晴らしい先生方に出会い、現在に至っている。
今ではもう 「あの時の2年間は運が悪かった」と、思うしかないのは悲しいことである。

 第13回 常識のない日本人観光客 2004年2月7日

海外旅行が昔に比べてずっと楽にできるようになった。多くの日本人が異国に行って色んな経験ができるようになったのは非常にいい事なのだが、どうも各国で見る日本人観光旅行者は他の国の旅行者と違う。今回は僕が今まで海外で見てきた日本人旅行者について書いてみたいと思う。予め言っておくが、これらの例は、僕が見てきたほんの一部の観光旅行者のことで、決して全ての日本人に当てはまるという事ではない。

<買い物>
日本では新聞や雑誌、旅行会社のパンフレットを通して様々なツアーの内容を知る事ができる。もちろん魅力的なツアーが多々あるのだが、ほとんどのツアーは必ずといって言いほど現地の土産店に連れて行かれる。例えそれが目的でなくてもバスで特定の店に連れて行かれ、そこで1時間なり時間を取られるのが日本のツアーでは一般的である。なぜなら各土産店から旅行会社にリベートが支払われているから、各旅行会社は日程の中に絶対にそこで止まるようにしなければならないのである。僕が今まで参加したツアーでは、どの国でも最低一つの土産店に足止めされた。現地の土産店と言っても 何故か日本人向きに作られた店が多い。これはなぜか?それは日本人が世界で一番と言い切っていいほど「買い物好き」だからである。それに多くの日本人が「海外旅行=買い物」に結び付けている人が多い。買う物が現地の特産品や貴重な食べ物や置物だったらいいのだが、ブランド品を目当てに旅行に行く人が多いのは日本人旅行者の特徴だと思う。欧米人の旅の目的は違う。大体が知的文化物を求めて現地に向かう。遺跡、博物館、劇場などの見所が多いヨーロッパ各国ではそれを海外の人への売りとしている。なぜなら、それらの文化財が国の誇りであり、国民の財産だと思っているからである。日本人はどうであろうか?何のために海外に行くのだろうか?ブランド品や土産物を目当てに現地に行くのが海外旅行とは言わない。しかし悲しいことに、そういう遺跡や素晴らしい建築物などの拝観はそこそこにして、土産物店に走る日本人を目にしたのは事実である。

僕がスイスの高校時代に行った旅行は遺跡や建築物に時間をほとんど費やし、買い物は自由時間の一環として数えられていた。ようするに買い物はそれほど重要じゃないという事が向こうの先生や生徒たちの認識だった。

別に僕は「現地に行く前はある程度その国について勉強して下さい」とは言わないが、少しでも知っておいた方が現地に行ったときの感動は一入(ひとしお)である。少なくともその国に行く前に「誰と、誰と、誰にこのお土産を買って、自分には・・・」と考えるよりよっぽどマシである。因みにヨーロッパ人が嫌う各国の買い物客の中で日本人は上位に位置付けされているらしいので、買い物する時は前もってその国の買い物の仕方を知っておくべきである。(例えば、ヨーロッパの国々では店員に断りなしに勝手に商品に触れる事を嫌がられる事が多い。)

<食事>
日本食は非常に健康的なので、同じような健康食品を海外旅行中に求めるのは無理だから「食」に関しては何も言わない。現地で自分の気に入った食べ物を食べたら良いと思う。しかし僕が言いたいのは食べる時のマナー。これは特に中高年の人に多いのだが、日本にいるときと同じ感覚で食事を取っている人が非常に多い。特にひどかったのが、僕が学校の旅行でシチリアに行ったとき、たまたまツアー団体と同じホテルになった。食堂は大きくて料理もすごくおいしかったのだが、その団体がその食堂の雰囲気を見事にぶち壊してくれた。大声で喋り、手をたたいて歌い、さらにはナプキンを腰につけたまま席を立つ(まるでフンドシ)。こっちが見ているだけでも恥ずかしい光景がそこにあった。当然一緒の席に座っていた友達はみんな「ごーちゃん、あいつらと同じ日本人だろ!文句言ってこいよ!」と言われ非常に肩身の狭い思いをした。食事を楽しく取るのは非常にいいのだが、なぜホテルのような公共の施設(しかも異国で)で日本の宴会のような騒ぎが繰り広げられるのかが理解できない。はっきり言ってしまえば、その旅行者たちに海外における常識がないとしか言いようがなく、他の国の人たちに恥さらしになるので行かない方が良い。宴会なら日本でやってくればいいと思う。ツアーコンダクターも事前に海外での食事のマナーを教えとくべきである。

<写真>
マナーが悪いのは何も食事だけに限った事ではない。日本人は買い物も好きだが、写真を撮るのも好きである。そりゃ後々旅の想い出となるのだから、写真を撮るのは非常にいい事なのだが、所かまわず絶えず写真のシャッターを切るのはどうかと思う。写真も大切かもしれないが、せっかく遠くまで来ているのだから、景色や建物や絵画や遺跡をその目に焼き付けておく方がいいのではないか?写真で見るのと実物を見るのでは残る印象が絶対に違うはずである。昔、あるヨーロッパ人が「日本人は観光によく来るけど、写真ばっかり撮って、じっくりその物をよく見ようとしない。」と言っていた事があったが、この事を書いていて改めて思うと「なるほどな」と思う。それと、ヨーロッパの博物館や神聖な聖堂などでは写真撮影を禁止している所が多い。それにも関わらず、写真を撮っている日本人を最低一人は見かける。「バレなかったらいい」という見識を持っている以上、絶対同じような日本人が出てくる。ほとんどの日本人が「なぜそこで写真を撮ってはいけないか?」というのを認識してないのも問題がある。多くの博物館や聖堂に飾られている絵はフラッシュを浴びると変色してしまう。見た目では分からないが、次第に色があせていくらしい。僕はこの事を高校の先生に旅行に行く前に、かなり厳しく言われた。日本の旅行会社もしっかりとこの事実を伝えるべきである。後世、「日本人の所為で貴重な文化遺産が色褪せた」と言われたら、やはり日本人として恥ずかしい。

<修学旅行生>
最近では、修学旅行で海外に行くのも珍しくないらしく制服を着た学生を見る機会がたまにある。僕がいるアメリカではまだないが、オーストラリアでは常に多くの生徒を見ることができた。これはゴールドコーストでの見たことなのだが、ある中学校の生徒の団体がいくつかのグループに分かれてカフェで寛いでいる人に次々と声を掛けていた。何やってるんだろ?と思いながら生徒が持っている紙をチラっと見ると、なんと「現地の人に聞いてみよう!」のタイトルと共に聞くべき質問がたくさん書いてあった。確かに現地で生の英語を聞くのは非常に良い機会だし、今後の英語教育にも役立つと思うのだが、なぜその課題を出した先生は現地の人に迷惑がかかると考えなかったのだろうか?中学生は一所懸命話しかけていたが、やはり流暢に話せないのでうまく伝わらない。現地の人はその生徒たちが何の目的を持って話しかけているのかが分からないから ちょっと戸惑っていた。せっかく答えても生徒たちが理解できないから苛立つ人もいた(いかにもキレそうな人もいた)。これはその方に気の毒としかいいようがない。この場合生徒は悪くない。彼らは課題をこなそうと勇気を振り絞って頑張って話しかけているのだから、それは後々何かしら良い経験に繋がると思う。悪いのはその課題を生徒に課した先生にある。海外に行った時点でもうそこは学校でもないし、その先生の授業でもない。先にも書いたが現地の人の後先の迷惑を考えないで、自分のやらせたい課題を日本と海外の区別も付かず出す先生は最悪である。もし生の英語に触れさせたかったら生徒を公共の場で放し飼いにするのではなく、専門の講師でも呼んでその課題をやる時間を与えれば良いと思う。

海外が日本人にとって身近になった事は非常にいい事である。でも、日本では通用する常識は海外では非常識として捉えられることが多い。「ブランド物目当ての買い物」「宴会のような食事」そして「公共の場を巻き込んだ課題」。これらは僕が見てきた中で最も印象に残っている。もちろんどれも良い印象などではなく、日本人の在り方を海外に誤解させるだけである。「国際化」、「国際化」と言っている割には、日本はまだ個人が国際化されていないし、海外の事情に通じていない。日本のツアー旅行会社も国内旅行の延長みたいな旅行ばかり企画するのではなく、買い物などで時間を取らないで、現地だけの魅力を思う存分味わえるようなツアーを企画すべきだと思う。そして行く前には日程だけを言うのではなく、「現地ではこういう事はしないで下さい!」などの注意事項を参加者にきちんと伝えるべきである。たとえ伝えたとしてもルールをきちんと守る事ができない人には参加資格はないと思う。

最後に、海外旅行に大事なのは、いかに楽しんで、その国で恥ずかしくない日本人の姿を見せる事なのではないだろうか・・・。

第14回 Forever DQ 前編 2004年12月27日

今年の2004年11月27日、ドラゴンクエスト8が発売された。ファンにとっては4年ぶりの待望の新作で僕も楽しみにしていた一人だ。このサイト全体を見てお気付きの方も多いと思うが、僕はドラゴンクエスト(以下ドラクエ)シリーズが大好きでファミコン版の1から今回の8まで全てプレしている。だからこのホームページを命名する時も迷うことなくドラゴンクエストの「クエスト」をゲーム名から借りた。リンク集も特定の場所を行き来する「ルーラ!」にするなど、ごく僅かだがドラクエ色を開設当初から出している。ドラクエが世に出て約18年、ドラクエはファイナルファンタジー(以下FF)と並ぶ日本最大のRPGとして認知されている。アメリカでは認知度がFFに比べて圧倒的に低いが、全シリーズを通して変わらない面白さを提供している事には変わりは無い。今回のコラムはファミコン時代の1から前作の7までのちょっとした思い出を少しずつ書いてみたいと思う。

<ドラゴンクエスト1> (86年)
僕が5歳(だったと思う)の誕生日に幼稚園の友達の母親がプレゼントとしてファミコンの本体とゲームを数本くれた。僕の母親はファミコンが世に出てきた時、僕にさせまいとファミコンの話題は一切しなかったが このプレゼントによってもろくも計画が崩れ去ったのである。さて、そのもらったソフトの中に混じっていたのがドラクエ1だった。僕は当時RPGなど知る由もなく、遊んでみても何が目的なのか分からず 特に興味を持たなかった。ただ、人と話時にいちいち東西南北を選んだり、階段一つ降りるのもコマンドから「かいだん」を選ぶ煩わしさと、何も装備してない時、両手を左右に振りながら横歩きする主人公が印象的だった。ファミコン版では戦闘画面(フィールド上のみ)に背景がある唯一のドラクエ。戦闘に負けた時に出る「あなたはしにました」の一言は当時幼かった僕には衝撃的だった。

<ドラゴンクエスト2> (87年)
実はこのゲームをどうやって手に入れたか全く覚えていない。1を持っていたからという理由で2を買ったのか、それとも誰かに買ってもらったのかは定かではない。ドラクエの中で2が一番難しいというファンが多いらしい。僕もこの意見に賛成だ。仲間は1の1人から3人に増えたのだが主人公の自分は強くても他の二人の力量に差があった。仲間のサマルトリア王子は攻撃も呪文も中途半端でいまひとつ。そしてもう一人のムーンブルク王女は肉弾戦としては全く戦力にならなかった。僕は呪文より攻撃重視で戦うので、主人公以外の能力には不満があった。お金は貯まりにくいし、ダンジョンが長いなど色々と難しさがあったが、このドラクエの一番の難しさはゲームよりも復活の呪文ではないだろうか。復活の呪文とはゲームを再開する時に必要なパスワードである。当時のファミコンゲームはパスワードで続きをプレイできる物が多く、このドラクエ2も例外ではなかった。しかし最大52文字という超長いパスワードであった為、ほとんどどこかで書き写し間違える人が多かった。入力し終わった時に現れる「じゅもんがちがいます」の言葉を見て頭が真っ白(もしくは目の前が真っ暗)になったプレイヤーが多かったと思う。僕もその一人だ。僕は他の人みたいに呪文ノートなど作ってなかったので、書き写したのが間違っていたらアウトだった。だから最高でムーンペタ(3つ目の町)までしか行った事が無い。あの頃のゲームは容赦無かったと思うのは僕だけだろうか?パスワード入力時に流れる「Love Song 探して」の曲は歌としても有名。

<ドラゴンクエスト3> (88年)
おそらくドラクエ史上、一番社会問題に発展したゲームであろう。アメリカで雑誌、少年ジャンプが発売された昨年(2003年)、日本で人気のあるゲームの代表として「ドラゴンクエスト」の特集記事が載っていた。その中で当時のドラクエ3がいかに凄かったかと説明が付いたぐらい人気が高いゲームである。平日に発売されたため子供たちは一斉に学校をさぼり、不人気のソフトと抱き合わせで売ろうとしたりして各地で色々な騒動があったソフトだった。僕はその騒動から約半年を過ぎたある日、友達のS君のお母さんにS君がゲームを買ってもらうついでに買ってもらったので、一連の騒動は全く知らなかった。ドラクエファンの中でこのファミコン版の3が一番と言う人が多い。僕もそう思う。このゲームからあの忌まわしい復活の呪文が消えた。変わりに「冒険の書」というファイルのデータを保存できるようになったからだ。しかしその冒険の書を開くまで続く無音の画面に(容量が足りなくなってタイトル時に流れるオープニングテーマがカットされた唯一のドラクエ)毎回緊張感に包まれた。もしファイルが消えると嫌な音と共に「おきのどくですが ぼうけんのしょ○(番号)は消えました」というメッセージが出てくる。僕はこの音楽を聞きたくなかったので いつも耳を塞いでゲームを起動していた。今やっても充分楽しめるドラクエでキャラクターごとに異なる職に就けさせるところが魅力的で初心者にも勧められるゲームの一つである。マップが世界地図と似ている事と、主人公の父親が覆面とパンツ一丁という姿で現れるのが印象的。他ページでも書いたが上の世界をレベル27でクリアしたのはクラス記録だった(誰を対象にしたのか忘れたが・・・)。因みにパーティーの名前が「ないと」「ぜいた」「ざく」「どむ」・・・当時、ガンダムが好きな訳ではなかったのに、なぜそんな名前にしたのか今でも分からない。

<ドラゴンクエスト4> (90年)
予約して初めて買ったゲームがドラクエが4だった。当時近くの西武デパートのゲーム売り場で予約伝票と引き換えに買った事を今でも覚えている。その後母親と昼食で行った中華料理店で母親の話そっちのけで説明書を読んでいたことも・・・。ドラクエ3でついにドラクエの面白さが分かり、発売前からテレビでCM(京王線バージョン)を頻繁に流していたので発売日を「待つ」という楽しさを味わったのがこの4であった。このドラクエは5章からなるショートストーリー仕立てで最後の5章で今までプレイしてきたキャラクター結集するという新しいタイプのドラクエだった。キャラクターの強さもバランスが取れており、ゲームも特別に難しいという事はなかったのだが、このドラクエから戦闘時に作戦が追加され、自分で好きな作戦を選んで敵と戦うというシステムがあった。AI戦闘と呼ばれるシステムで当時のRPGにしては画期的だったが、戦闘中自分でキャラを細かく動かせないので不満だった。ただ、僕の場合他のプレイヤーがよく話題にする「クリフトが(キャラの名前)最後のボスにザキ(モンスターを死に至らしめる呪文)を唱えまくる」という現象は起きなかった。なお、初期版なので「逃げる8回→全員会心の一撃」という裏技を使う事ができた。クリア直前まで進めた後、ある日友達のS君(3に書いたS君と一緒)に貸したら 一週間後、自分のデータが全部消されていて僕のあだ名で全く違う冒険の書がリメイクされていた(そのデータは元の自分のより遥かに強かった)というショッキングな出来事があったドラクエだったことを覚えている。リメイクで思い出したが、4はファミコン版のリメイク版が多いドラクエシリーズ(1-4)の中で この4が一番長い間リメイクされなかったかわいそうなドラクエである。

第15回 Forever DQ 後編 2004年12月27日

<ドラゴンクエスト5> (92年)
ファミコンの時代が終わりスーパーファミコン(以下スーファミ)のゲームが主流になってきた92年、ドラクエも例に漏れず5はスーファミで発売された。当時僕はスーファミの機種を持っておらず やりたくても買う事ができなかった。そして中学に上がって暫くした93年、ようやくスーファミを買ってもらって本体と一緒に買ったのがこのドラクエ5だった。ファミコンとは比べ物にならないスーファミの映像と音楽に友達のY君の家で圧倒されてから約1年、ついにそのスーファミを手にした。ドラクエ5は4よりずっとグレードアップしたグラフィックや音楽も魅力的だったが、何より戦闘の作戦に「めいれいさせろ」が追加された事が僕にとっては大きかった。これにより戦闘の自由度が一気に増した。またドラクエ5はモンスターを仲間にする事が大きな魅力だった。50種以上いる仲間モンスターを全て仲間にするのは、大変な時間と労力を費やすが、僕は自分の使いたいモンスターしか仲間(しかも比較的仲間になりやすいモンスター)にしなかったので楽にゲームを終わらせる事ができた。5は比較的 「冒険の書が消えやすい」と言われるが僕はスーファミになってからそういう事が改善されたと信じていたので 3のような痛い目は合わなかった。余談だが6、スーファミ版1&2,3も消えたことは無い。5には今でも忘れられない事がある。当時友達のK君と協力し合ってこの5を攻略していた。ゲーム中、主人公に子供が生まれるイベントがあって、男の子と女の子の双子に名前を付けなければいけないところがあるのだが、主人公の名前がなんとゴリリン(多分当時のあだなのゴリから、今思うとかなり笑える)だったので 子供二人は息子が「ゴリタ」で娘が「ゴリミ」と名付けられた。他に5をやっていた友達から「ひどい親だな」、「ひどいネーミングセンス」と言われたのはいうまでもない。当時主人公、及び子供たちになんでそんな名前を付けたのかは僕本人でも知る由も無い。

<ドラゴンクエスト6> (95年)
中学3年の頃、周りが「受験」「受験」とせわしくなった12月に発売されたのがドラクエ6だった。発売が話題になっていた頃、僕はすごくプレイしたかったのだが、時期が時期だけに親が許さなかった。よってこの6が親に内緒で購入した唯一のドラクエである。自分のこずかいを持って発売日当日 学校から歩いて15分ぐらいの中古ゲームショップに放課後走って買いに行った。その日少しずつプレイして3~4日たった頃、悲劇が起こった。ある日学校に6を持って行った。多分友達に貸す約束(そうすれば親の目に触れる事がないため)をしていたんだと思うが、休み時間が終わった後 同じ班の友達のM君が冗談で僕に「ドラクエ持ってきてるんだ~。じゃ、無くなっているかもしれないよ」と言ってきた。「まさか~」と笑いながらカバンをチェックしたら本当に無くなっていた。M君は冗談で言ったはずが本当にそうなっているとは思っていなかったのでパニック状態。僕はもっとパニック状態だった。学校の先生に「持ってきたスーファミのソフトが無くなりました。」と言う訳にもいかず 結局泣き寝入りするしかなかった。大変だったのはその後である。もちろん親に打ち明けたら(他人の親御さんから耳に入る前に)とんでもなく怒られた。怒られている場面が今でも鮮明に覚えている。結局 その次の年受験を終えて 親から改めて買ってもらった。今でもプレイした中身よりその事件のが僕にとっては大きな部分を占めているのがこのドラクエ6である。因みに中身はと言うとゲームバランスもいいし、スーファミの容量を最大限に生かした音楽もグラフィック(モンスターが動くようになったのもこのゲームからだった)も素晴らしかったが、3以来に復活した職業システムの職が多すぎた気がする。5を引き継いで仲間モンスターも登場したが 5ほど種類も多くなく既存の人間キャラだけで充分だったので 影薄くなってしまった・・・言わば 
良いとこ取りに失敗したドラクエという感じがしたのは・・・僕だけ?

<ドラゴンクエスト7> (00年)
色々な意味で賛否両論があるのがこの7。この7が発売されたのが僕がカルフォルニアのアパートに戻る(当時カルフォルニアの大学に在籍していた)5日後だった。だからルームメートのN君が買ってきた時 頼んで譲ってもらった(もちろんお金は払った)。プレイステーションで出た初めてのドラクエだったのだが、プレイステーション2のゲームが台頭してきた頃に あえてプレイステーションで出たのは 発売が遅れたからであろう。今までドラクエ(今回の8を除く)は発売日発表通りに発売された事がないらしい。7は予定を大幅に遅れて発売された。伸びた分 さぞ素晴らしい作品になっているだろうと期待していたファンを最も裏切った事で有名らしいが、僕はゲームとしては楽しめたと思う。ただあえて言うとしたらこの7は長すぎると思う。まずオープニングから初めての戦闘まで2時間以上掛かった。その後も細々としたショートストーリーが18近くあり、それらをクリアするだけで精一杯になりとても裏ダンジョンなどのその後の世界をプレイする気にはなれなかった。でも、フォロッド城やグリーンフレークなど印象に残るイベントは多かった。またこのドラクエには移民やモンスターパークなどの新システムがあったが、ストーリーを楽しみたい僕にとっては不要だったのでほとんど手を付けなかった。7はディスク2枚組だが1枚目にゲームのほとんどを詰め込んだお陰でバグ(画面のフリーズなど)が相当多かったらしい。僕は幸いそういう目に合わなかったが、頑張って時間を掛けてプレイしている人にとってディスク読み込みのバグでプレイを断念せざるを得ないのは辛い。もし今「7をもう1回最初からやれ!」と言われたら、答えはNo!である。それでもあの長いドラクエ7を2周したのは、よほど時間があったのだろう。

以上がドラクエの思い出話である。今思うとドラクエと共に時代を過ごしてきたんだなと改めて思う。どうしてもFFや他のRPGと比べウケが悪い所があるかもしれないが、僕にとっては今も昔もドラクエが一番のRPGである。僕は今ドラクエ8を最初から始めた。1回目のプレイでクリアしたのではなく、自分のゲームなのに自分でプレイした気がしないからだ。なぜなら購入してアメリカに戻ったら、僕よりアメリカ人の友達がハマってしまい ほとんどの時間、僕が見ている側に回ってしまったからだ。回復やセーブの仕方など基本的なことを教えると、さすがアメリカ人。3Dで再現されたフィールドやダンジョンをどんどんクリアしていった。いやもっとすごいのは日本語が読めないはずなのに どんどん話を進めていく彼の凄さだろう。今回のドラクエ8で3Dゲームが初めてなので苦手意識があるが、少しずつプレイしていきたいと思う。「シリーズを重ねても 変わらない面白さ」。これがドラクエなのではないだろうか?

余談だが、ドラクエ8のフィールド音楽のサビが映画、「風と共に去りぬ」のメイン曲(タラのテーマ)、リーザス村などの村の音楽(出だしの部分だけ)がディズニーの「It’s a Small World」に似ていると思っているのは僕だけだろうか?

P.S.
この回で取り上げた「ドラクエ8」は2005年2月上旬に無事クリアできました。