ここでは2002年から2003年まで連載していたコラムの傑作選を紹介致します。

第1回 アメリカの食 2002年11月7日

アメリカの食生活って何だろうか?残念ながら僕はあまりいいイメージを持っていない。もし友達に「ねえ、アメリカの食べ物って何が有名なの?」と聞かれても「ジャンクフード」(簡単に言えば太りやすいファーストフードなど)としか答えようがないのは僕だけだろうか?

5年前初めてアメリカを訪れた時、ただ口で言う「ジャンクフード」以上に衝撃を受けたのを今でも覚えている。友達が買ってきたジュースのサイズ。必要以上に甘いお菓子。決して口に入れたいと思わない色の付いたアイスクリームやケーキ etc…まず思ったのが、「何でこんな物 毎日食ったり飲んだりできるのだろう?」と思った。それと同時に、よくテレビに出てくる「太ったアメリカ人」はこれらの食べ物によってできるものだという事も認識した。

1997年、僕は夏の間、バーモント州のセント・ジョーンズベリーというところに語学留学に行った。当然身寄りもいなかったのでホームステイだったのだが、出してくれる食べ物でショックを受けた。野菜がない・・・のである。いや、あるのだが日本みたいに豊富ではなく ほんの数種類の野菜のみ。しかも全部生。「僕は動物になりに来たのではない」と本気で心の中で訴えた。メインディッシュといえばチキンやパスタが主だった。それに普通にポテトチップがサイドに添えられていた。「アメリカでホームステイしたら 絶対体を壊すな・・・」と悟ったのはこの時である。

ホームステイのファミリーはとても明るく接してくれて、すごく過ごしやすかったのだが、やはり極度に違う食生活の所為で 日本帰国時には渡米前より10kg近く体重が増えていた・・・。帰国後は日本の食生活に戻して、なんとか1ヶ月で8kg近く痩せたのを今でも覚えている(それでも渡米前より+2kg)。

アメリカ人はホントに食に対しての意識が薄いと思う。「蒸す」と「煮る」が日本料理ほど一般的ではないこの国では作られるものも限られる。それに野菜をほとんど食べない(もちろんベジタリアンと呼ばれている人たちは除く)。甘いものも大好きである。コーヒーや紅茶に「これでもか!」と砂糖を入れまくっている人を見かけるのは日常的である。食う量も半端じゃない。僕は今いるウィスコンシンの大学は朝食でオムレツをオーダーできるのだが、その大きさが卵4~5個分もする。だから僕はいつも半分のサイズを食べているが、まだ大きいと思っている。しかし、彼らはそれを簡単に平らげている。中には目玉焼きを5個ぐらい一辺に食べて、まだ飽き足らないのか、ゆで卵まで手を出している人がいるのである。僕から見れば、こうした光景がとても異常に見える。

「野菜がない」と言ったが 僕の大学はそれほどでもない。ただ、確かにサラダバーに野菜はあるのだが、全部生なので食べられるものも限られてくる。僕はブロッコリー、カリフラワー、ねぎ、ほうれん草なども食べたいのだが、生でポンと置かれているので食べたいとはあまり思わない(ほうれん草が刻んでありさいすれば手を出すと思うのだが・・・根元までそのままだから・・・無理です)。ニンジンやカリフラワーの茹でたのが出ている時は少し安心してしまう。

そういえば、僕がスイスの高校でシニアだった頃、イタリア人のルームメートとパスタの話をしていた。彼は「イタリア」のパスタは最高だと信じている。もちろん僕もその意見に賛同できる。本当に美味しいのだから。僕が「何でアメリカでは「同じミートソースでも美味しくないのかな?」と聞いた。僕の質問に対する彼の答えが、

“You know why? because Americans don’t know how to cook!”
(何でか知っているか?アメリカ人は料理の仕方を知らないんだよ。)

なるほど!食を愛するイタリア人のもっともらしい答えである。自分の国の料理が一番と信じているからこそ そう答えられるのである。よくアメリカの家庭で「うちのお母さんがつくるパスタは一番だよ」などという会話を耳にする事があるが、冗談じゃない!!一緒にしないでくれ!・・・と言いたくなる。(そりゃ、イタリアみたいにその国の料理が本当においしいのなら別だが)僕もそう言われた物を実際食べてみたが、はっきり言ってマズかった。まだ日本のコンビニで買えるパスタの方がおいしいと思う。

余談だが、これだけ体にいいものを食べないアメリカ人に病人が少ないのは謎である。さっきも言ったが野菜をほとんど食べず、パスタや肉やピザなどだけで体を維持できること自体、不思議に感じるのは僕だけであろうか?僕の隣人にピザばかり食べて、部屋の外からほとんどと言っていいほど出ないでコンピュータの前に座ってばかりの友達がいる。彼は僕の倍近い体重がある。凄く太っているので動くのも辛そうで、かわいそうに思う。でも、アメリカではこういう人を見かけるのはしょっちゅうである。でも、こういう人は体型に関わらず元気である。やっぱり体の基礎が違うのだろう。

さて、話が逸れたが、

「食」とは世界各国違うものである。ただ、いかにアメリカが世界に権威を見せつけても食べ物だけは世界に誇れないと思う。世界三大料理である、中国料理、フランス料理、トルコ料理の域まで達するには、根底から食生活を見直さない限り・・・ない。

第2回 中学最大の事件1995 2002年11月23日

誰にだって、忘れられない事件が過去にあると思う。僕にも、日本の学校生活で一生忘れる事ができないほどの大きな事件があった。もう時効になっていると思うので、ここで書いても問題はないと思う。

7年前のあの日、当時中学3年生だった僕は都内の区立中学に通っていた。その事件は、ちょうど3年の二学期で「受験」、「受験」と騒がれていた時期に起こった。僕らの3年B組は5つの班に分かれていて、それぞれの班が違った場所を掃除することになっていた。その掃除場所の一つにトイレがあった。ちょうどその頃、僕の中学ではトイレをリフォームしたばかりでトイレだけがとてもきれいだった。工事を終えてそんなに経っていなかったと思う。僕らの班にトイレ掃除の番が回ってきたある日の午後、僕を含めて4人で掃除をしに行った。たしかに今までの汚らしいトイレとは違い、便器も、フロアも壁もきれいになっていたので掃除はそんなに大変なものではなかった。

ちょうど掃除をしている時、一匹の蝿がトイレ内を飛んでいた。僕がその場でその蝿に向かって飛び蹴りのような仕草をした時、同じ班のM君が「だっせえ~、それが蹴りかよ~」と言ってきた。続けさまに「見てろ!これが飛び蹴りだ~」とか言って、僕の方に飛び蹴りのような体勢のまま突進して来た。僕はひょいと横に飛び退いた瞬間、信じられないことが起こった。M君の蹴りが真新しい壁を突き破り、その部分と周りが粉々に崩れ落ちたのだった。彼は真っ青になった。もちろん僕らも。

学校のトイレの壁である。掃除後は担任の先生のチェックをしに来るので 当然これは隠す事ができない。蹴り破った本人は、僕や同じ班内の友達に「絶対、先生に俺がやったと言わないでくれ!!」と懇願してきた。理由は「内申書に響くから」である。内申書のことは後で書くが、それが いかに生徒を苦しめているかが分かる彼の一言であった。しかし、僕を含め班のみんなは一部始終見ていたので、とても既成事実を作れない。

翌日、僕は先生に呼ばれた。なんと知らない間に、僕の所為になっていたのである。話を聞くと、「僕がM君を最初蹴ろうとした、だからそれに呼応して彼が飛び蹴りをした。」というのである。ようするに「僕が彼に飛び蹴りをさせるきっかけをつくった。」というのが先生の説明であった。

当時、僕は今みたいにはっきり物が言えるタイプではなく、うつむいて何も言えない、反論できない 超弱気(?)な性格だったので、それが災いして、先生の言われるままに事が進んでいった。当の本人はどうか?彼は自分が蹴ったのにも関わらず、最初は事実を認めながら、一転してそれを否認したのである。もう一人のM君という友達が、「ごーちゃんは悪くない、僕が全部見ていたから、先生に説明してやる!」と言ってくれた。

が、この事件は、生徒の親と先生を巻き込んでの大騒動になった。結局、担任の先生と大喧嘩をしながらも誰も罰せられなかった。粘り強く先生に抗議した結果、僕の無実が証明された。解決を要するのに1ヶ月近くかかった。結局誰が悪かったのか?
 
もちろん壁を蹴破ったM君もそうなのだが、実はこのトイレの工事を請け負った会社が一番悪いのである。何故かと言うと、考えてもらいたいのだが、普通、真新しいタイルが貼られた壁が、たかだか中学生の蹴り一つで、あっさりと崩れ落ちるものなのか?せいぜい足跡が残るぐらいのものである。実はこの壁、タイルの裏側はベニヤ板であった。しかもその奥は空洞だった。ようするに、ベニヤ板にタイルをセメントで貼り付けただけの手抜き工事であったわけである。もちろん、この事件で生徒は誰一人賠償させられる事はなかった。ただ、僕はとんだ濡れ衣を着せられた 被害者になったわけである。

この事件で言いたかったこと、それは事実をはっきりと先生に伝えなかったことである。これは当時の僕の性格を抜きに話をしても、みんなに当てはまる。一番の大きな原因に内申書の存在である。区立中学では高校受験に内申書が大きな要素をしめる。5段階評価を足した数字(副教科の音楽、美術、体育、技術家庭はその点を1.2倍)と先生の評価が書かれて、受験する高校に出される。これが悪いと受ける学校が限られてしまう。(当時、東京都は学区制だったので、受けられる学校(都立高)は決められていた。)

みんなは5段階評価より、この内申書に自分がどう書かれるかに 日々怯えて(?)なければならない(と、大体がそう思っている)。だから「先生に物事をはっきり言えない」、「意見を言う時は言葉を選ばないといけない。」「何か問題を起こしたら何を書かれるか、分かったものではない」・・・などとほとんどの生徒は内申についてそう考えてしまう。たとえ、先生が「何をやっても内申は別のこと」と思っていても「内申」という言葉だけで、生徒は萎縮し、時には泣き寝入りしてしまう。だからこの事件も(内申書の存在があるから)すごくややこしくなってしまったのである。別に先生は生徒に目を光らせているわけでもなく、校則もほとんどない自由な学校だったのだが、3年生のほとんどの生徒は内申書を気にしながら学校生活をおくっていたのである(もちろん全員ではないが)。僕はこれが、ある意味 生徒の自由を奪っている気がする。見えないプレッシャーが生徒にかかるので、どうしても自己保身しか考えられない人がつくられるのである。(もしかしたら、官僚はこうした経験を経ているから、そういう人が多いのかも・・・というのは余談だが)

なぜ、「内申」、「内申」と騒がなければならないのだろうか?中学生活に大事なのは、先生の内申による圧政(?)ではなく、学校生活を楽しむことだと思う。今は内申書の制度がどうなっているのかは知らないが、当時、もしこれがなかったら僕はこんな事件で相手の自己保身的な態度によって被害者にならなかったと思う。

この「新装トイレの壁破り事件」は 僕たちだけでなく 学年を巻き込んだ騒動に発展したのは先に述べた内申書と全く関係がないとは言い切れない。こうした事件を起こして、内申書を理由に僕みたいに罪を被ったのは 他にも絶対にいると思う。日本の中学校のシステムの嫌な一面を垣間見たこの事件、あれから7年経った今でも絶対に忘れる事ができない。たとえ、他の人は忘れても・・・。

第3回 アメリカ人 その1ー約束ー 2003年2月22日

カルフォルニアからアジア人の少ない ウィスコンシン州に学校を移してもう半年近く経った。今までアメリカにいるといっても、日本人や台湾、韓国などのアジア系と仲良くなることが多くて、アメリカ人といつも一緒に行動する機会などあまりなかったが、ここにいるとアメリカ人が良く分かるようになってきた。今回から3回に分けて、 アメリカ人について気付いた事を書いてみようと思う。

読む前に言っておきたいが、あくまで僕の主観なので異論、反論はあると思う。だから読む時は、「あ、ごーちゃんはこういう風に思ってるんだ。」程度に思って欲しい。それでは、連載第1回のテーマは「約束」。

みんなの間で友達同士、知人同士の約束を いったいいつ頃から決めるだろうか?1ヶ月前という人もいれば前日という人もいるだろう。僕は日本と同じ感覚で約束事をして、先学期、酷い目に2回ほどあった。一つはただ単に、「一緒に行くはずだった夕食をすっぽかされた」だけだったが(これも相当酷かったが、まだマシな方)、もう一つはクラスを落とすぐらい危ない目にあった。今日はそれについて書こうと思う。

アメリカ人は基本的によほど重要なミーティングやアポイントがない限り、大体、他人との約束を忘れる。断っておくが、もちろんそうじゃない人もたくさんいるので、予め言っておく。

こんなことがあった・・・
僕は先学期、初めて外国語としてドイツ語のクラスを取った。最初は順調だったが、学期を半分過ぎると段々難しくなってきて、誰かのヘルプ無しには理解できないぐらい複雑な文法がでてきた。テストが2日後の迫ったある日、ノートを取っていて、比較的成績が良い すぐ後ろの席の女の子に、

「取れなかったノートがあったから見せて」と頼んだ。

彼女に、
「いいよ。ただ、今日は19時から20時まで用事があるから、20時以降に電話掛けてね。」
と言われた。

とりあえず20時過ぎまで自分のできるところはやって、電話をかけた。が、いくらかけてもいなかった。やっと出てきたその子のルームメートに「彼女はどこか?」と聞いたら、「友達の部屋に行っちゃったから、今夜は帰ってこないと思う」と言われた。

僕 「・・・・・。」

ようするにすっぽかされたのである。テストまでまだ2日あったので、「次の日に聞けばいいや」と考えていた。しかし、それは間違いであった。次の日もいくらかけてもいなかった。当時他のクラスメートの電話番号を知らなかった僕にとっては致命傷だった。結局、肝心の文法ができなかった僕は、そのテストで散った。

その後2日間、彼女とは口を聞かなかった。

余談だが、僕が取っていたドイツ語の教授はすごくいい人で、多少のミスでも部分点をくれた。しかし、そのテストを採点したのは、ドイツから交換留学で、Teaching Assistant として ここに来ているドイツ人の女の子だった。彼女の採点方法は容赦なく、少しでも間違えると全部点を引かれた。それもこのテストの成績を悪くした一因でもあった。

しかし、約束を忘れた女の子は テストが終わった次の日、ただ一言「ごめん、忘れちゃった!」。
もう呆れるしかなかった。僕は彼女と忘れた事だけを話して、後は何も言わなかった。

もし日本人の間でこんな事やったら、とんでもない事になる可能性だってある。でもここはアメリカ。
これが普通なのだろう。僕はこういう軽はずみな すっぽかしは絶対にできない。

そして、最悪の事態は学期最後のテストの直前に起こった。成績が下がり始めた僕を心配して、例のドイツ人の女の子が、僕に「チューターを頼んだから、その人と相談してみて」と言ってきた。それで、その人の名前と電話番号をもらった。今度は大丈夫だと思って、掛けてみたが、考えが甘かった。今度も電話が全然繋がらないのである。そして、やっと繋がって、連絡が取れたときには試験のもう数日前。でも、何もしないよりはマシだろうと思い、とりあえずアポイントを取った。

「日曜日の午後2時半から」  今でも覚えている。
その人は僕に、「あまり部屋にいないから、もしいなかったら留守電にメッセージ残して。会う時間を忘れるといけないから。」

この言葉を聞いたとき、今度は前回の女の子より大丈夫だろうと思った。本当にそう思った・・・・。しかし、またしてもダメだった。当日、何度かけてもつかまらなかった。またすっぽかされたのである。そして最後のテストは察しの通り、盛大に散った。

あれだけ安全圏内の成績をキープしながら、最後はこの2つのすっぽかしの所為でギリギリのラインでパスをした。

この経験で一つ分かった事がある。アメリカ人と約束をしたら、当日も彼(もしくは彼女)に思い出させなければならないって事である。「もう約束したから安心」と絶対に思ってはいけない。人によっては前日に約束しても危うい人もいる。もちろん「会う約束」だけにかかわらず、何かを貸した時も同じある。ちゃんと思い出させないと貸した物は戻ってこない事も多い。海外に留学する人で、(主に学校内で)一番多く経験するのが、「貸したペンや鉛筆が返ってこない」ということだろう。これは僕も経験あるし、僕の友達の中でもペンなどを失くされた人も多数いる。これから海外で勉強する人、是非気をつけてもらいたいものである。

冒頭にも言ったが、もちろんアメリカ人の中にもしっかり約束を覚えていてくれる人もいる。
だから誤解しないで欲しい。全部が全部こんなに酷い人ばっかりじゃないことを・・・。

これを読んで
「アメリカ人=約束を守らない人種」と決め付けないで欲しいのはもちろんだが、
ただ、参考程度に「あ、こういう人もいるんだ」と心に留めておいてくれればいいと思う。

この事件以来、僕はちゃんと当日にも約束した人に会って、確認するようになった。もう二度とこんな酷い目にあわない為に・・・。

追記:
書かなかったが、僕がこの学校に入学する前、見学に来た事があった。
その時も会うはず教授が見事にすっぽかして、オフィスの外で待たされた事がある(笑)。

第4回 アメリカ人 その2 ー自己優先ー 2003年3月7日

連載2回目、今回のテーマは「自己優先」です。前回に書きましたが、アメリカ人と身近に接してきて分かってきた事の一つにアメリカ人は「自分優先」の人が多いということです。これは僕の学校での寮生活を元に書いてありますので、もちろん全てのアメリカ人に当てはまるというわけではありません。さて、本題に入りましょう。

僕は今まで在籍した学校全てで寮生活を経験してきましたが、高校の時は色々と寮の規則があって、比較的何事(騒音被害など)もありませんでした。カルフォルニアの大学でも一番静かな寮と言われる建物で過ごしたので、ここでも特に問題はありませんでした。

さて、今いる学校は前にも書きましたが、ほとんどがアメリカ人です。高校の寮みたいに 特に厳しい時間制限や、規則はあまりありません。よって、「いくらうるさくしようが他人には関係ない!」というような世界ができてしまいます。

普通の学校がある日でもうるさい日がありますが、週末は特にひどいです。部屋によってはパーティーと称して、多数の人を部屋に呼び、音楽をボリュームいっぱいにして歌ったり、楽しく話したり、みんなで酒(主にリキュールなど)を飲んだりします。日本と違い、こっちでは「パーティー」と言っても、特に何かを祝うのではなく、ただ単に暇だから(?)騒ぐのです。パーティーに来る女の子たちの叫び声は半端なもんじゃありません。酷い時には音楽より彼女たちの方がうるさい場合もあります。

人によってクラススケジュールは違いますが、この学校の生徒は木曜にクラスがない人(もしくは遅く始まる人)がとても多いので、水曜の夜=週末 というイメージがあるのでしょう。学校がある日なのにかかわらずパーティーをしている人がいます。試験期間やクラブチームの試合を前日に控えている人はパーティーなどしないので、いくらか静かになります。これがパーティーを好まない人にとって唯一の救いでしょう。

先に書きましたが、アメリカ人はあまり他人の事など気にせず騒ぐ人が非常に多いです。パーティーだけに限らず、平気で音楽のボリュームを夜遅くにあげたり、大声で話したりします(時には訳も無く叫んだり・・・)。だから他人が寝ていようが、電話していようが、勉強していようが関係ありません。「楽しみたいときに思いっきり騒ぐ」、「自分が最優先」これがアメリカ人です。僕はこのアメリカ人100%の寮でそれを感じました。

「なんで他の人のことを考えてあげて、静かにしないのだろうか?」と思ったこともありますが、考えるだけ無駄だと分かったので、考えるのは辞めました。日本だったら、「夜何時以降は近所迷惑になるから・・・」という各自の認識がありますが、ここには残念ながらそういう考えは存在しません。

「近所迷惑」で思い出しましたが、昔カルフォルニアでアパートに住んでいた時、となりの建物(同じ高さ)の部屋で他の人たちが誕生日パーティーをやっていました。そのアパートには僕みたいな学生など住んでおらず、比較的高齢者が中心に入居していました。大人たちのパーティーだから多少は常識もあるだろう・・・と思いましたが、パーティーが始まってその考え方は物の見事に打ち砕かれました。うるさい音楽とかありませんでしたが、外に出て彼らの話し声がすごかったんです。深夜になっても全然止まりそうになく、結局、何時か忘れましたが、パーティーがお開きになるまで、大きな話し声と笑い声が絶え間なく続いていました。

僕は「静かな場所じゃないと、寝られない人」でしたが、もうここに来て大分慣れてしまいました。よほどうるさい時は、騒いでいる部屋に文句を言いに行きます。音楽の場合はたいていの人はボリュームを下げてくれますが、話し声などは無理なようです(ちょっと静かになったと思ったら、すぐうるさくなります。)

パーティーをする際の常識に年代は関係ないようです。国民性の違いですね。アメリカは自己主張が強い国と言われています。「他人がどう思おうが自分たちが楽しめればいいんだ!」という考えは少なからずあると思います。だから深夜でも平気で音楽をガンガン鳴らしたり、叫び声や怒鳴り声(別に怒ってるわけでもないですが)をあげても「他の人に迷惑がかかる」という認識はありません。

これは人から聞いた事なのですが、今から2~3年ほど前、バレンタインの企画としてロマンス小説の大御所ハーレクインが、「恋人と一緒にタイタニックに乗っていて沈みそうになったらどうするか?」という質問を全世界の女性にしたそうです。日本での1位は「恋人を逃がして自分が死ぬ」(いかにも日本らしい・・・)、ヨーロッパでの1位は「ふたり一緒に沈む」(さすがヨーロッパ!)だったそうです。ですが、アメリカ人の答えがなんと「バラバラになって、どちらかが生き残る確率を高くする」(・・・・^^;)。もう何とも言えません。さすが、アメリカ人ですね。これも一種の自分優先に入ると思います。

このアンケートから分かるとおり、アメリカ人は良く言って、「自己主張が強い」、「自分がある」ですが、悪く言えば、「自分が最優先」、「自分が一番大事=自己中心」なのではないでしょうか?

最初に言いましたが、全てのアメリカ人がこうではありません。何か書いていて「アメリカ人は自分のことしか見えてない」という感じがしますが、アメリカ人はフレンドリーで気を使ってくれる(この場合の「気を使う」は日常生活で、という事です。)人も多くいるということを忘れてはいけません。あくまで僕が今回テーマにした「自分優先」が当てはまるのは「パーティー」などの馬鹿騒ぎをしている時です。

これからアメリカ人と付き合う人、既にたくさんの友達がいる人、彼らの長所を見つけてじっくりと付き合っていきましょう。決して「なんて勝手な奴らなんだ!」と決め付けないように・・・。

最初は憤る事もあるかもしれませんが、そのうち慣れるでしょう。僕みたいに・・・。

第5回 アメリカ人 その3ー裁判ー 2003年3月29日

連載コラム最終回は、アメリカでの「裁判」についてです。アメリカでは法廷での争いが日本に比べて非常に多いです。日本人の中では、「厄介なことになりたくない」と思う人が多いのか、裁判で争われるのは 基本的に犯罪や事件などが主ですが、アメリカは違います。些細な事でもすぐ他人を訴えます。「裁判好きなアメリカ人」と言ってもいいのではないでしょうか?「好き」というよりも多分、争いごとは個々でもめるよりも「裁判」で争った方が公正だと考えている人がいるのかもしれませんね。争い事と言っても、色々あります。例えば、「宝くじをみんなで買って、当たったら配当はどうなるか?」とか「大リーグで○○選手が打った第○号ホームランのホームランボールは誰のものか?」など、日本では考えられない(個人で解決できそうな事)事を裁判で争います。僕が今まで目にしてきた中で特に面白かった裁判を紹介したいと思います。もう既に知っている人もいると思いますが、もしよかったら読んでみてください。

<車の買い方>

これは去年(2002年)某州で起きた事なのですが、TOYOTAの車販売店が街のキャンペーンとして、ローカルの情報雑誌に200ドル割引券を最後の方のページに1~2枚付録として付けたそうです。その時は販売店もある落とし穴に気付いていませんでした・・・。それを必死で集める人が出てくることを。そうです。なんとこの200ドル割引券を500枚以上集めて、新車を買いに来た人がいました。もちろん店側は拒否。券を集めた男性はすぐに裁判所に訴えを起こしました。これも信じられないような話ですが、やる人がいてもおかしくありません。しかし、この訴えで一つ、男性側の主張に筋が通っている事があります。それは、その券には「本券は1枚(もしくは2枚まで)しか使用できません!」などと使用時の枚数制限が書いてなかったのです。日本ではどんな割引券にも枚数制限が書かれています。国民性の違いなのでしょうか?車販売店はただ、「本券を持参したら200ドル引き」としか書かなかったのです。これは店側の完璧なミスでしょう。「枚数限が書いてないから、何枚集めたっていいんだ!」と考える人が出てきてもおかしくありません。残念ながらこの裁判の結果は知りません(知っている方、ご一報を)。これは男性側の言い分がはっきりしているので、勝訴してもおかしく
ありませんね。

アメリカでは日本人には考えられないような裁判が多々あります。ここでは紹介していませんが、最近、マクドナルド裁判もありましたね。女の子の家族が「マクドナルドを食べさせたら、「うちの娘が太った。店にはこの食べ物を食べたら体に何かしら異常をきたすと書いてなかった」(そりゃ書かないって・・・)と言って裁判を起こしました。この女の子はほぼ毎日マクドナルドに通っていたそうです。普通、そんなファーストフードばっかり毎日食べていたら太るのが当たり前と考えるのが普通だと思います。(ちなみに訴えを起こした女の子のうち一人は身長140cmで体重が100kgぐらい
あったそうです)

なんか書いていてアメリカ人の国民性がますます分からなくなってきそうです。他にはどんな裁判があるか知りませんが、上記に紹介したように常識はずれの裁判は聞いていても面白いです。しかし、訴えた方は真剣なので、笑い話にはならないですよね。

アメリカは自由な思想を持つことができる国です。抑圧されてないから、自分勝手に振る舞うこともできるし、裁判も起こすこともできる。日本人の常識が通じないことがあっても、基本的には付き合いやすい人種なのではないでしょうか?これからアメリカ人の友達を作ろうと思っている人、僕が連載した3つのコラムに当てはまらない人も当然います。例え、何かしら当てはまっていたとしても、自分が付きやすい友達を選ぶのが一番大事なのではないでしょうか? 

僕はこのアメリカの社会で驚きや戸惑いを感じながらも暮らしています。これからももっと面白いことを発見できることでしょう。