ここでは2005年に連載していたコラムの傑作選を紹介致します。

第16回 留学1 やる気 2005年1月7日

2004年12月、無事にウィスコンシン州にある大学を卒業した。大学卒業まで色々なことを学んだし得たものは大きかった。今回のコラムから今までの留学経験を集大成としてまとめてみたいと思う。

「留学」。初めて留学を意識したのは中学校の頃だった。中学3年にもなると、ほとんどの生徒が高校受験に向けて準備を始める。例え難関を突破しても3年後にはまた大学受験という高いハードルがやってくる。どこの高校もその大学受験のために生徒に勉強を課す。僕はそれに疑問を持っていた。もちろん受験も大事だが、多感な時期にもっと学べる物があるんじゃないかと思った。当時、担当の英語の先生がアメリカで生活した帰国子女だったので、向こうの生活や英語に興味があった。英語を学べばもっと視野が広がるに違いないと思っていたが、とりわけ僕自身気が小さく口下手の方だったので、留学がそんなうまく行くはずがないというのが僕を含め周りの考えだったに違いない。しかし、このまま皆と同じように高校に行っても何も変わらないだろうと感じていた。

語学を学ぶなら それを母国語にしている国が一番だという事を以前のコラムに書いた。英語だったらアメリカもしくはイギリス(もしくは英語圏)だろう。しかしアメリカの高校に入学する場合ビザ申請などでそれなりの時間が必要だ。僕は留学を考えていても何一つ準備をしていなかったのでアメリカに行くには遅すぎた。

それでは、どこの国がいいか・・・と考えていたある日、従姉の家族から

「スイスにあるレザンアメリカンスクールの校長先生が東京に行くらしいけど、留学を考えてるんだったら会ってみたら?」

と助言してくれた。スイスはヨーロッパにある小国だが英語圏ではない。この国の人は大概フランス語かドイツ語を話す。しかしアメリカンスクールだったら別だ。アメリカンスクール内で教えるのは英語が主だし、第一ヶ国語も英語だ。

僕はこの学校に行きたいと思った。その後、色々な人に手続きなどでお世話になり 紆余曲折を経て高校1年生の9月入学に間に合った。

留学を決めるまでの過程は人それぞれである。留学で一番大事なのはやる気である。やる気がなかったら わざわざ現地に行っても得るものは少ないだろう。僕は最初はそこまで留学をしようと思わなかったが、やはり日本の受験を目指す文法中心の英語教育に嫌気が差していた。僕はレザンの高校に入れた事を素直に喜んだ。それで一所懸命やろうと思った。

僕の英語力はというと・・・自分の自己紹介もまともにできない程だった。いくら中学校の英語の成績が良かったとしても所詮は受験の為の英語。その教育の影響がモロに出た。最初の授業では先生が何言っているのかさっぱりだった。隣に座っている人も日本人じゃなかったので戸惑いの連続だった。それでも拙い英語を駆使して必死に授業についていった。

そして最初の学期が始まって1ヶ月半が過ぎた時、初めての成績表を受け取った。僕はびっくりした。ほとんどがAでどの先生の評価コメントも「素晴らしい生徒です。」「常に努力している生徒です」だった。別に自慢しているわけではない。ただ、この成績が成績以上に僕には意義があった。日本では何かと否定されがちだった僕が初めて先生に認められたのだ。第20回のコラムで書いたSTだったら ちょっと成績が悪いだけで邪険にされていただろう。しかしレザンの先生は、僕を初めて相対的な評価ではなく絶対的な評価で見てくれた。もちろんあと「テストで何点取らないとダメ」などと言わなかった。生徒が努力した分認めてくれた。僕はそれが凄くうれしかった。日本の先生とは全然違う評価法だが、人間的に見てくれた先生に感謝すると同時に「よし、もっと頑張って 良い成績をキープしよう!」とやる気が出た。英語を初めて本格的に学んで苦労が多かったが 幸い周りの素晴らしい先生のお陰で 初めての海外生活は順調な滑り出しだった。先生によって生徒がどれだけ影響されるかは前に書いた。先生によって僕みたいにやる気が更に出る人もいれば、そがれる人もいるだろう。僕がこの成績をもらった時 改めて「やる気」が大事だという事を認識した。

さて、話が変わるがこの「やる気」について考えさせられる事がここウィスコンシン州の大学在籍中にあった・・・。

第17回 留学2 準備 2005年1月14日

ある日Admission Officeから朝8時に電話で連絡が入った。
「日本から願書(以下アプリケーション)が来たから、今日時間があるときに来てくれ!」と言われた。こんな田舎の大学にわざわざ日本からアプリケーションを出すなんて 変わった高校生がいるんだな~と思いながらオフィスに行った。

そのアプリケーションは英語で書かれていて、学校の英語の成績も申し分なかったのだが ただ日本人留学生に必要なTOEFLというテストのスコアが学校の基準に達していない事が懸念材料になっていた。そこで僕にどう思うか相談したいと、副学長からの頼みだった。

副学長と一緒にアプリケーションやその他の書類に目を通して、彼が僕に「彼が書いたこのエッセイに読んでくれないか?」と聞いてきたので目を通してみると・・・おや?と思う事があった。そこには「学生生活の中でバスケットボールをして将来はNBAでプレーしたい」と書いてあった。大きな夢を持つ事、アピールする事は大いに結構だが もし本当にそうしたいのならバスケットボールDivision I の学校に行けば良い。アメリカの大学はスポーツのレベルごとにDivision I-IIIに分けられている。因みに僕の学校はスポーツより勉強に重点を置く一番下のDivision IIIである。僕はそのエッセイを読んで、
本当に僕の学校のことについて調べた事あるのかと疑いたくなった。

留学生は現地で頑張るのも もちろん大事だが準備はもっと大事だ。自分の行きたい、もしくは興味がある学校が見つかったらその学校について色々と調べるのは基本でないだろうか?

その生徒はまずその基本ができてなかった。もしや・・・と思って彼のアプリケーションを注意深く見ると、留学斡旋業者が書いたアプリケーションだという事に気が付いた。その生徒のe-mailアドレスもそこの会社のアドレスになっていた。ようするに行く本人ではなく他人によって作成されたアプリケーションだった。留学斡旋業者を使うのは悪いとはもちろん言わない。自分もスイスに行く時に利用した。しかし、全て人任せではなく最低限学校について色々と調べて それらをアプリケーション上にあるショートエッセイの項目に志望理由を盛り込むのがその学校への礼儀ではないかと思う。

しかし、副学長はせっかくの日本から来たアプリケーションだから僕を介して その生徒と直接話をして うちの学校にどんな印象があるのか聞いて欲しい・・・と頼んできた。もちろんどうして僕の大学を知っていたのか興味があったので快諾した。日本との時差は14時間(当時)。

彼(副学長)は「今掛けたら向こうの夜11時だ。ちょっと遅いけど勘弁してもらって話を聞いてみよう」と言われたので 電話を掛けてみた。すると、その生徒の母親らしい人が電話に応対したので「○○君いますか?」と聞いてみたら

「息子は既に寝てますので、また明日改めて掛けてくださいませんか?私で分かる事ならお答えしますが・・・」

と言ってきた。僕は呆れ返った。この電話は友達からの電話ではない。普通 留学志望する学校からわざわざ電話掛かってきたら何時であろうと叩き起こすのが親の仕事ではないだろうか?僕もカルフォルニアの大学に行く前、同じようにそこの大学から朝早く掛かってきたが、大事な電話なので頑張って起きて電話に出た。行く気があるのなら本人は絶対電話口にでないといけないと思う。同じ電話でも日本国内と違って国際電話だから当然費用も掛かっているのを忘れているのだろうか?一応彼の英語勉強歴など聞いてみたが、いまいちよく分からない答えが返ってきた(「どっかのESL programで2ヶ月ほど勉強してCを取っただか取らなかっただか・・・」。)

仕方がないので「それではまた明日の朝、改めて電話を掛けさせていただきます。」と言って電話を切った。副学長は「しょうがないよ。遅いんだし」と言ってくれたが、僕はがっかりした。そして9時間後の午後6時(日本時間午前8時)に再度掛け直した。副学長のオフィスの時間は午後5時までなのに わざわざ
この生徒の為に1時間延長してくれた。そして電話はつながり ついに本人が出てきた。

僕:「うちの大学のことどうやって知りましたか?」
生徒:「本で見た・・・(その後はよく聞き取れず)」
僕:「海外で英語の勉強の経験はありますか?」
生徒:「2ヶ月ほど(多分そう言ったと思う)・・・アメリカの○○のESL programで・・・・(聞き取れなかった)」

その生徒の声は何言ってるかよく聞き取れなかった。最初はここの電話の所為かと思ったが前日の生徒の母親の声は聞き取れたので、彼の地声なのだろう。こんなやり取りが続くとさすがにキレそうになった。それと同時にこんな時間まで待ってもらっている副学長に申し訳なくなってきた。この電話で分かった事があった。彼は自分のアプリケーションや他の書類に何が書かれているか分かっていないということだった。もし自分で準備したアプリケーションやエッセイだったらそれを業者に渡しても 僕の(もしくはその学校の在校生)質問に答えられるはずだ。

僕は思ったことを副学長に正直に話して(うちの学校の事を良く知らない事や業者任せのことなど)時間をとって申し訳ないと謝り 部屋を後にした。僕は4年間この大学にいたわけではないので、1、2年の時に取らないといけない教科の話など 念のためこの電話の後2-3人の友達と話してみた。

友人:「ここは日本人、ましてや他の国の生徒もすごく少ないから大変だけど、その人は海外に留学していたの?」
僕:「してたとは言ってけどESLだけじゃないかな。そんな長期じゃないと思うよ」
友人:「そっか・・・ここはESL programもない 本当のアメリカンな学校だからごーちゃんの今話してくれたような生徒は苦労すると思うよ。」

やはり彼らも僕と似たような考えを持っていた。因みにさっきから度々書いているESLとはEnglish as a Second Languageの略で英語を母国語としない生徒のための授業プログラムで英語を基礎から教えてくれる。

この電話からしばらくして、彼の合否の判定が下された。もちろん合否の判定は僕ではなく、副学長や他のそれを取り仕切る部署の判断である。
休みで帰国していた僕に副学長からメールで「彼は取らない事にした」と言ってきた。

僕は学校側の裁定は正しいと思う。前回も書いたが留学に大事なのはやる気である。準備の時点で他人任せにしたところで 学校については何も学ぶ事ができない。もちろん現地に行ってもうまく行く保障はない。「とりあえず学校に入学して見たけど、合わなかった」などの理由で退学(もしくは編入)するよりも「準備を万端にして学校のことを調べたけど 現地の学校で合わない部分があった」同じ理由で退学(もしくは編入)するのなら まだこの理由の方がいいのではないだろうか?なぜなら資料で調べられるのは限界があるし、実際の学校の中身はみていないからである。これから留学を考えている人で時間や費用に余裕がある人は入学する前に見学に行くことをお勧めする。僕はレザンのアメリカンスクールを入学前に訪れなかったが、事前に色んな情報を収集したお陰で それほど苦労はしなかった。もちろん入学してから知った事は多かった(規則のことなど)が、「郷に入っては郷に従え」という考えを持って学校生活を送った。

因みに僕はこのウィスコンシン州の大学に入学する前に見学に行った。実はもう一つ興味がある学校があって どちらに行こうか迷っていたからだ。対抗馬はニューヨーク州にある大きな大学だった。しかし、この学校は僕には合わないという事が分かった。朝早く学校に行ったのだが行き交う生徒はどことなく表情が暗いし、教授らしき人にオフィスの場所を聞いても知らないと言われた。極めつけはカフェテリア(学生食堂)に行った時、僕と親は目を疑った。各テーブル毎に白人、黒人、アジア系、ラテン系、ときれいに分かれていた。スイスのインターナショナルスクールで人種に分け隔てなく和気藹々(わきあいあい)と座るのが普通だと思っていた僕にとってはショックだった。

朝食後、Admissions Officeをやっと見つけた時には既にこの学校への興味は無くなっていた。「キャンパスツアーは午前11時からね。」とオフィスの人に言われたが、親の「おいしそうなアイスクリームの店があったから食べに行こう」の一言でツアーに行くのを辞めた。親も僕と同じような考えを持っていたらしい。

この大学とウィスコンシンの大学の2件だけ回る予定でアメリカに来たから、ここをダメにするとウィスコンシンの大学にかかる比重が高くなる。だから、「もし次の大学も自分の理想と違っていたらどうしよう」と心配になりながら次の田舎の大学を訪れた。しかし、その心配も学校側の誠意ある対応で一気に吹き飛んだ。わざわざ日本から来たのが よほど珍しかったのか うれしかったのか 一日のスケジュール(学校が良く分かるように)をぎっしり組んでくれて リゾートホテルまで滞在させてくれた(おまけにお土産にその土地のクッキーもくれた)。行き交う生徒や教授方もみんな笑顔で声を掛けてくれた。僕にとっては理想の大学でその場で入学を決めて日本に帰国した。

本では分からない一面が学校にはたくさんある。僕は入学前に2校を訪れて本当に良かったと今でも思っている。もし勝手に自分で決めてもう片方の大学に行っていたら、大変な生活を送っていたかもしれない。

最後に繰り返しになってしまうが、留学を真剣に考えているのなら 本やインターネットで出来る限り情報を収集するのがベストだと思う。「現地に行け」とまでは言わないが、今はe-mailなどの便利な通信手段があるので 直接質問をぶつけてみるのも留学準備の一つではないだろうか。

これらの経験を通じて「留学は学校に行くより行く前の方が重要である」と認識したのは言うまでもない。

第18回 留学3 親子関係 2005年1月17日

留学をすると語学だけでなく様々な事を学ぶ。レザンアメリカンスクールは僕にとって別世界だった。アメリカンスクールといえど やはり数十カ国以上の生徒と共に生活をすると、もちろん価値観の違いや文化の違いで多少の誤解が生まれる事もあるが、やはり新しい発見の方が僕にとっては多かった。今回は僕が留学を通して感じたことを二つ紹介してみたい。第一弾は「親」への意識。

留学生に限らず外国人は会話の話題で親や兄弟の話題をする事が多い。例えば「自分の親は○○をしている」や、「僕(私)の兄弟(姉妹)は○○を勉強している。」など、普通に会話に出てくる。もちろん日本人もそういう事を話題にする人は多いと思うが、日本人は比較的あまり自分の家庭や、古い友達、地元の事などの話はあまりしない。もちろんお互い良く知っている人や親しい友達だったらそういう話もするだろうが、他の国の人みたいに気軽に話題にしない。それは日本では個人の事を率先して話すより周りの話題に合わせる協調性の方が重視されるからだと思う。日本人と外国人の「プライバシー」の捉え方が違うのだろう。

ただ、親の事を話題にする時、「悪口」に近い感じで話題にする事が日本人にはとりわけ多い事が気になった。留学するのが本望でなかったとしても、やはり親を蔑ろにしたりするのは現代の日本人社会の家庭を見るようだった。

小中学校時代、僕の周りの友達でも母親の事を「ババァ」という人もいたが、もちろん本心からではない人が大多数。しかしレザンの学校では明らかに不満(本心とも取れる)を複数の友達グループの中での話の種にする人が何人とは言えないが少なからずいたのが事実だ。

確かに年頃になると 親と一線を画したくなる人が多い。「思春期」という言葉がある通り外国人でも親を避けたり 貶(けな)したりする人がいるが、高校生にもなると そういう事を辞める人が圧倒的に多い。ただ残念ながら日本人はそういう事を辞めない人もいた。

話題にする事も違えば、もっと違うのは「親と何かをする事」だろう。

僕の周りの友達は何人(なにじん)に限らず、「今週末は母親と買い物に行く」「休みになったらお父さんに○○に連れてってもらう」など、「親子仲が良い家庭」を思わせる人が多かった。それに比べ日本人は「友達と~」の方が圧倒的多く、親とはやはり行動を共にする人は少ない。(もちろんスイスまで遠いという事もあるが、この場合日本に帰ったらという意味で。)

これは面白い事に大学生になっても同じで、ここアメリカ・ウィスコンシン州でも親が息子や娘の様子を見に来たり、母親や父親と二人でどこかへ行ったりする事は日常茶飯事だ。もし日本で「今週末、お母さんと買い物に行くんだ」などと言ったらどうなるだろうか?多分「マザコンだね~」という答えが返ってくるかもしれない。・・・という事は 母親とどこか行ったり行動したりする外国人はみんなマザコンという事になってしまう。

もちろん子供だけに限らず親にも責任がある。日本人の親は大抵 子供がある程度大きくなると「子供が人の目を気にしてイヤだ」という理由だけで、子供と行動を共にしない人が多い。またそれを「自分は子供を理解している」事だと考えている。これらが日本人と外国人の親の子供と向き合う姿勢の差だと思う。

外国人は「親を敬う」もしくは「親を大切にする」という人が多い。だから何歳になっても会話の中に”with my mom” や、”with my dad” などのフレーズが
自然と出てくる。僕がそれを一番痛感したのが、ある日トルコ人の友達のエミールや彼の友達のシナンと話をしていた時、(何の話題か忘れたが)軽い気持ちで「うちの親、馬鹿だから」と言ったら 彼らは本気で怒った。

「親に向かってそんな事言うな!」と怒鳴ってきた。

僕は「ごめん、本気じゃない。冗談だよ」と謝って、分かってもらえたが 気軽に言った事は浅はかだった。以後、もちろん親の悪口を気軽に言うのはやめた。この一件で彼らが親に対してどういう気持ちで接しているかがよく分かった。

もし、日本人が冗談でも会話の中で親を蔑ろにしたり貶したりしていて、彼ら外国人が日本語を理解していたら・・・多分怒鳴られるだけでは済まないだろう。

なぜ日本人は外国人みたいに親と行動しないのだろうか?僕がレザンで見た限り 日本では親子関係が他国より希薄だと感じる。もちろんそれぞれの家庭の事情はあると思うが、僕たちが小学生だった頃は 親はたとえ仕事を持っていたとしても子供が帰ってくる時間に合わせるようシフトを組んで仕事をしている人が多かった。しかし今は「携帯電話を持たせているから大丈夫」とばかりに朝から晩まで子供と接っせずに働いている親が多い。子供が親と過ごす時間が少ないと 当然親子関係は親密になるどころか遠くなっていく。だから大人になっても「子供は親を親と思わない」という考えが生まれてしまう。親も親で「子供は子供、親の自分は自分」と思っている限り、外国人のような「行動を共にする」というのは不可能に近い。

話が少しそれるが、日本では育児の段階(ようするに子供が小さい時)から上記のような家庭が多い。しかし、アメリカや他の国では子供が生まれると長期的に休みを与えて子供と接する時間を増やす。日本みたいに朝から晩まで保育園に預ける というのは育児放棄に値するという。どういう事かというと、例えばアメリカでは「小さい子供を一人残して出かけたり、車の中に置いていくと罪になる」ほとんどの国では仕事と育児を両立できるように法律もしっかりしているし、会社側の理解もある。だから小さい頃から親は子供と多くの時間を費やす事ができる。これが日本と外国との育児と仕事の考え方の違いだと思う。

幼児への虐待が少ないのも外国人家庭での特徴だが、それにしても日本は多すぎる。「子供が懐かない」「子供が泣き止まない」などの虐待理由は外国人にとっては信じられないだろう。日本も早く外国みたいに子供と親がたくさんの時間を長期的に共有できるような法律(もちろん仕事を持っている親の為にも)を制定するべきだと思う。そうしたら日本人も外国人みたいに親と一緒に会話したり、自分の友達を紹介したり、どこかに行ったりという時間を共有するという事が大人になっても違和感なくできるだろう。

最後に余談だが、ドイツでは子供を捨てる事が法律で認められている(昔テレビで紹介していた)。にわかに信じられない話だが、やはり都合上どうしても子供を育てられない親のために親と子供を両方救う意味で法律ができたらしい。捨て子専用のボックスがあり、親は子供を中のベビーベッドに寝かせる。すると3回ほど(4回だったかも)「本当に手放していいんですね?」とメッセージが表示される。表示されている間は考え直す事ができる。全て「はい」と答えるとボックス内のガラス扉が閉じ 二度と我が子を手にする事ができない。さて、捨てられた赤ちゃんはどうなるか?赤ちゃんがボックス内に入れられるとすぐに係員が駆け付け、保護される。そして子供を欲しがっている夫婦に「養子」として渡される。その養子の親となる夫婦にも厳しいチェックがあり、子供をきちんと愛情を持って育てられるかが予め審査されている。だから赤ちゃんが捨てられても、その赤ちゃんは何不自由なく育てられる事が保障される。

これも一種の親子関係をより深めるための手段ではないだろうか?親の仕事の都合でほとんど顔を合わせない子供や仕事ストレスなどで親に辛く当たられる子供よりも、進んで子供を育てようとしてくれる親の方が子供にとって幸せだろう。

こうした家庭の後ろ盾があるからこそ、大人になっても親を大切にするという意識が生まれる。子供の方にそういう意識が生まれる為にも、まず親が大人で子供に頼られる本当の親でなければならない。そうでないといくら制度やバックアップが整っていても子供が安心して大人になっていく社会にならないと思う。レザンで僕が実際に見た彼らの「親」への意識が いつか日本人にも浸透する時代が来れば良い。

第19回 留学4 JAPAN 2005年1月23日

留学を通じて学んだ事、第二弾は国に対しての意識だ。レザンアメリカンスクールでは非常に多くの国から生徒が来ている事は前の回に書いた。

さて、学校生活は基本的に寮生活だ。部屋割りでの決まり事は「同じ国籍の人が同じ部屋にならないこと」。僕が在籍時、一番大きなグループはアメリカ人、その次にロシア人&カザフスタン人、そして日本人&台湾人だった。ロシア人&カザフスタン人はこの決まりをうまく使って、実際には同じ言葉(ロシア語)を話す事ができるのに国籍が違うからという理由で同じ部屋を共有している人がいた。

僕は1年目台湾人、2年目はトルコ人(エミール)、3年目はイタリア人で運良く3年間通してずっと2人部屋だった(当時は4人部屋がほとんどだった)。1年目のルームメートは最悪だった(超わがまま)が、残り2年はお互いよく知っていたので今でも連絡を取り合う仲だ。

この3人と一緒に過ごして気が付いた事がある。それは3人とも部屋の壁に大きな国旗を掛けている事だ。最初は別に気にも留めなかったが、他の部屋を周ってみると ほとんどの生徒が自分の部屋に大きな国旗を掛けていて、持ってない人は国旗のカラーコピーをベッドの脇に貼っていた。

日本人はどうかと言うと、残念ながら一人も見かけた事がない(当時)。僕も国旗を持っていなかったので一度も掛けなかった。

「何で国旗を掲げるの?」とはあえて聞く必要はないだろう。それは自分たちがその国の人だという事を強く意識しているからだ。お隣の韓国も中国も台湾もほとんどの人が国旗を持っていた。一人も国旗を持っていなかったのは日本人だけだった。いや、持っている人もいたかもしれないが、掲げてなかった。(International Dayなどのイベントの時に使えるようキープしている人など)

3人とも共通しているのが よく自分の国の自慢(良い意味で)している事だった。「○○という食べ物がおいしい!」「○○は観光リゾートで日本人が多く来る」「○○は僕の国しかないんだ」などなど・・・色々な自慢を聞かせてもらった。

彼らは自分の口から率先して言ってきたのも特徴だと思う。日本人はどうかというと、話題に上らない限り(もしくは聞かれない限り)自慢もしないし、自分の国日本について語る人は少なかった。

そういえば2002年に日韓共催のワールドカップが開かれたが、各試合前の国歌斉唱のときは選手も観客席も沸きあがる興奮を一時抑えて静粛に歌っていた。一方日本はというと、歌詞を知らないのか適当に歌っていたり、選手の中では歌を聴いてるだけで口すら開かない人もいた。これは他の国の人にはどんな風に映ったのだろうか?

戦後50年以上戦争がない中で暮らすと、国があるという価値まで分からなくなるのが日本人である。今の日本人には当然のようにパスポートが簡単に取れ他国と自由に行き来できる。トルコ人のエミールは「日本に行くのにはビザがないと行けない」と言っていたし、イラン人の友達は「パスポートは親とで一つだから今回の休みは国に帰れない」と話してくれた事を思い出す。他国でちょっと海外に遊びに行くだけでも大変な努力が必要だ。日本人には幸いそんな心配はない。何もかも自由で何でも手に入る世の中というのは時には弊害をもたらす。

例えば去年いくつかの学校で「(卒業式や入学式などの)式典で君が代斉唱の時 席を立つ立たないは自由」で もめていた。確かにそれは個人の自由だが、なぜ教員たちは「国があるから国籍があって国歌が存在する」と考えないのだろうか?

もし日本という国が他の国に支配されていたり、国(もしくは国籍)そのものがなかったらどうなるか?・・・・難民になるのである。

僕の3人のルームメート達は自分の国、民族に誇りがあるからこそ自分の国について堂々と自慢したり、色々と教えてくれるのである。日本人はどうだっただろうか?留学=勉強 と考えている人が多く 自分の国がどうのとか言うのより自分の事情や宿題の事ばかり優先していた気がする。

レザンアメリカンスクールでは体育館を使っての盛大なInternational Dayというイベントがあった。これは各ブース毎に自分の国の有名な場所の写真を貼り、テーブルには簡単なお菓子やジュースを置いて他の国の人に自分の国を紹介する・・・というイベントである。しかし日本のブースでは、写真はどこかの本やパンフレットのコピー、国旗は体育館に飾ってあるのを借りて、メインはテレビゲームをさせる一角だった。正直に言って他国のブースの方がその国を知るのに魅力的だった思う。前方にある舞台でその国のダンスや楽器を披露する催しがあるのだが、日本人がやったのは着物や浴衣を着てダンスミュージック(ディスコなどで掛かっているユーロビート系)の歌に乗って馬鹿踊り。これらが日本だと思われたら やはり恥ずかしい。僕は全部参加していないので 卒業後、少しは出し物が良くなったかもしれないが、「日本ってどんな国なんだろう?」と思っていた人には少なからずショックを覚えただろう。

「日本人留学生は勉強は一所懸命やるが、自分の国に誇りを持っている人、自分の国について熟知している人は少ない」とレザン在学中に誰かが僕に言ってくれた事があったが、この言葉の意味を僕はカルフォルニアの大学で思い知った。

当時、日本の近代史を取っていた。その授業中、ペリー来航の時「将軍や武士たちは日本人としての文化、誇りが失われるから反対した。それでは、なぜ彼らは失われると考えて鎖国を推し進めたのか?」という話がディスカッションのトピックになった。同じクラスの日本人のTさんが、「この頃の人は上に立つ人も平民もきちんと日本という国に誇りを持っていて真剣に国の行く末を案じていた。でも、今の若い人はそんな事すら考えず今が楽しければいいやという人が多い」と発言した。僕は「それは確かにそうかもしれないけれど、みんながみんなそうじゃないと思うよ」と彼女に言ったが「それじゃ、ごーちゃんは日本人としての誇りを持っているの?どうなの?」という質問に答えを窮した。恥ずかしながら僕はそれについて真剣に考えた事がなかった。この一件によりレザンアメリカンスクールで、外国人の友達が自分の国をなぜ大切にして誇りを持っていたか思い出した。

50年以上戦争がない日本は奇跡に近いだろう。それを当然と受け止めてしまうと日本という国に対して真剣に考えなくなると思う。僕もその一人だった。

僕は留学を通して色々な事を学んだ。もちろん語学だけでなく、今書いてきたような「国についての意識」や前回のコラムで書いた「親に対しての意識」などいずれも本やテレビなどでは簡単に学ぶ事ができない重要な事だ。その他にも色んな事を学ぶ事ができた。今思うとレザンアメリカンスクールでの経験や体験は自分の今後の糧になる貴重なものだったと思う。

僕が卒業後、レザンアメリカンスクールの校長が あまりにも目にあまる日本人新入生の遊学ぶりに こう怒鳴ったそうだ。「日本の恥だ!」と・・・(僕はその場に居合わせてないから事実は知らないが、なんでも勉強もせず、すごい格好をしていたらしい)

留学すると どんどん新しい事を知る事になる。それは他国の人にとっても同じで、僕たち日本人を見て

「日本人はどういう人種か?」
「日本はどういう国なのか?」 

と言う目で見てくる事を忘れないで欲しい。これ以上海外で恥を晒さない為にも留学を手助けする会社や学校も事前に留学生に色々と教えておく必要があると思う(もちろん ほとんどがそうしていると思うが)。それはコラムの第21回で書いた海外旅行についても同じ事だ。

最後に・・・

「留学する」=「その国を代表して現地で行く」、という心がけを持っていれば、きっと日本人を見る目も変わるだろうし、日本人だという事を誇れるだろう。そういう気持ちでいけば、きっと留学は成功するはず!

第20回(最終回) 変わりゆく時代、変わらない教授 2005年7月14日

どこの国の教授でも どんなトピックにしろ他国の事を教える事は容易ではない。例え日本に頻繁に来日している外国人教授でも日本のことを1から10まで知っているとは言えない。しかし大学&大学院ではある特定の分野を専攻として学び、博士号を取得し大学などで教鞭をとる教授は少なくない。さて、最終回のコラムはある一人の教授を取り上げたいと思う。僕が大学を卒業した次のセメスター(学期)、僕の大学に初めて日本に関するクラスが開かれる事になった。クラスの名前は”Japanese Religion”。宗教のクラスだが、日本が遠い国と感じるここの生徒の間ではクラス登録前に話題になった。僕の友達も何人かが興味を示していたが、専攻の違いや他クラスと同じ時間などのスケジュール調整が合わず取るのを断念した。僕はクラスを取る必要がなかったので、興味本位で参加する事にした(もちろん教授に許可を取って)。

教授は近くにある大きな大学から教えに来ているvisiting professorのL教授だった。1週目のクラスの初め、自己紹介するときに「自分は日本の宗教や歴史のプロフェッショナル」と言った。と、いうことは相当教えるのに自信があるらしい。そして初回のクラスを淡々と教えて1週目を終えた。週1回3時間のクラスなので1回に教える量が多い。

日本が大好きな友達のベンや日本に短期留学や旅行をしていたことがある他の友達など顔見知りも多かったので、「あ、これは悪くないクラスだな」と思い、2週目から参加する事に決めた。2週目、3週目も参加し、教授の分からない言葉や発音できない言葉があったら助け舟を出してあげた。

しかし、授業が進むうちにある不満が出てきた。授業の間の休憩を終えた後の第2ハーフのラストにこの教授は日本の物の紹介と称して、色々な物をクラスに持ってきた。それは有名な黒澤明監督の映画だったり、音楽だったり・・・。しかし、何一つ新しいものではなく70年代~80年代の物が中心だった。

70年代後半から80年代前半まで研究の為、日本に滞在した事があるらしかったのでその時に集めたのだろう。紹介するのはもちろん構わないし、僕にとっても見た事も聞いた事もない物ばかりである意味新鮮だったから良かった。しかし一番気に入らなかったのがみんなに紹介した後だ。

音楽にしろ、その他の日本のカルチャーにしろ時代と共に流行は変わるものである。当然この時代を生きた人にとって今の日本の流行はとても同じとは思わないだろう。しかしこの教授は決して自分の誤りを正そうとしなかった。例えば、森進一の「えりも岬」をクラスで聞かせ「これが日本のポップ音楽だ。」と紹介したり、三波春夫の浪曲、「俵星玄蕃」の歌詞中にある早い言い回しの箇所を「日本のラップ」と紹介した。僕やその他の生徒で日本の新しい物や人気がある物が好きな生徒は半ば呆れた表情で聞いていた。

音楽はまだ良い方だ。なぜなら離日以降、日本へ戻っていない限りなかなか音楽やポップカルチャーのニュースは入ってこないからだ。

ただ、僕が問題にしたいのはもっと重要なトピックでの認識の誤りだ。例えば某新興宗教のビデオを見せて「日本で仏教や神道以外で流行っている宗教」と紹介したり、日本社会を語る上でも「日本人はほとんどいじめもなければ自殺も無い」などと何十年前の日本も今の日本も全く変わってないと認識している点だ。僕もベンも「それは違う。今の日本は・・・」と授業中の休み時間に説明しようとしたが「あ、そっか」と言うだけで あまり耳を貸さなかった。

何かを教える上で大事なのは専門分野の知識はもちろんだが、新しい意見や事実に耳や目を傾けるべきである。「新しいことに興味を持て」とは言わないが、そういう事を知る柔軟さも必要だと思う。先にも書いたが、今の日本は70年代に比べると社会も流行も人の考え方もまるで違う。自分の世界に浸るのは結構だが、それだけを知識として生徒に押し付けたりしたら 将来日本へ行く生徒に少なからずカルチャーショックや誤解を生む事になるだろう。

僕の専攻科目担当のF教授もL教授と同い年(60代?)ぐらいだが、彼はその点に関しては柔軟だった。F教授の専門が政治学だったのかもしれないが、生徒が言う他国の事情や新しい事に耳を傾け知ろうとした。僕も大学ただ一人の日本人として色々な話をした。彼の柔軟さのお陰で、僕は大学の卒論に「携帯電話」を取り上げる事ができた。なぜならF教授は詳しくなくとも日本人が携帯を良く使うという事を何かの文献から知っていたからだった。

ある日を境に僕は授業に行くのをやめた。理由はいくつかあった。簡単に挙げると、

ほとんどのアメリカ人は日本に興味があっても日本語の勉強はしたことがない。それなのに黒板に書くノートは漢字中心。意味を英語で添えていてもやはり慣れない字を一所懸命模写するアメリカ人にとっては一苦労だ。それにノートを取るのも遅れる。しかもその書く漢字のほとんどは旧字体。僕は「新字体の方が簡単だし、見易いから」と言ってあげたが、「自分は古い人間だ」と言って耳を貸さなかった。

また、生徒に渡したプリントの歴史年号が間違えていても、「自分のノートは簡単にしている」と言って耳を貸さなかった。例えば鎌倉幕府を開いたのは1192年。ほとんどの日本人は「イイクニ つくろう 鎌倉幕府」と覚えているはずだ。しかしL教授が書いた年号は1185年。1185年と言えば平清盛が切られた年だ。ここでも彼は「簡単にした」と言った。逆に難しいと思ったのは僕だけだと思うが・・・。

さらに自分が読んだ文献のタイトルと作者と目次の紹介を1時間半近く延々と話し続けた。これには僕だけでなく生徒や同席していたL教授の秘書(教授一人一人に雑用をする秘書的な仕事をする人が付く)も呆れた。友達の一人が「延々と紹介してもらっても読まないから!それより授業をして!」と文句を言っていた。

まあほとんどのアメリカ人は漢字や歴史年号や文献など、テストに出ない限り関係ないと思っているから問題はないのだが、講義している内容を知っている僕みたいな生徒や前もって日本の言語や歴史などを勉強した事がある人にとっては苦労するだろう。

ただ、僕が行くのを止めた本当の理由は上記の理由からではない。ある日、かの有名な黒澤作品、「七人の侍」をクラスで鑑賞した。僕はその映画を今まで見る機会が無かったので授業後、教授に頼み借りた。50年以上前の映画だが、すごく面白く、日本屈指の映画と言われる意味が良く分かった。事件はその次の週の授業中に起こった。

その授業中、教授は富士山を舞台に修行する山伏について講義していた。昔はいっぱいいたらしいが、今は減少していると・・・いうような講義内容だったと思う。そして講義中、彼は僕に「富士山に登ったことあるか?」と聞いてきた。僕はいつも新幹線やその他の観光スポットから眺めるだけだったので「見た事はあるけど、登ったことはない」と正直に答えた その直後の彼の言葉が、

“Oh, you’ve never climbed Mt. Fuji, and you’ve never watched Seven Samurai, are you Japanese?”(富士山にも登った事も無くて 七人の侍も見た事ない、あなたは日本人ですか?)

僕はキレそうになった。もしクラスじゃなかったら その場から無言で立ち去るか、「あなたにそんな事を言われる覚えはない」と言っていただろう。

少なくとも僕はこの大学でたった一人の日本人として頑張って卒業したという自負がある。長い留学生活で色々と嫌なことはあったが、それは友人間の問題が主で教師からこのような屈辱を受けた事はない。大学卒業まで教授に恵まれた僕にとっては少なからずともショックだった。友達のベンは「ジョークだから気にするな」と言ってくれたが、タチの悪いジョークである。

このL教授にとって日本人の定義は「富士山に登った事があって、七人の侍も当然鑑賞している」なのだろう。確かに僕は富士山に登った事もなければ、七人の侍も見た事がない 彼の定義上では「日本人失格」なのだろうが、何もクラスのみんなの前でも言わなくてもいいではないか。また下手すると他生徒に間違った日本人の定義を植えつけかねない。

クラスには顔見知りが多かったし、事を荒げたくもなかったのでその場では苦笑いを浮かべただけで何も言わなかった。

一般的に人は他国によって少なからず偏ったイメージを持っている場合が多い。僕も他人の事は言えず、アジアの中ではIT大国であるインドのイメージは今でも「カレー」と「インダス川の沐浴」を最初に思い浮かべてしまう。高校時代、カザフスタン人のクラスメートに「日本人は寿司を毎日食べているのか?」と聞かれた事があったが、やはり外国人から見て日本のイメージと言えば今でも寿司であり、侍であり、忍者なのだ。それは否定するつもりはない。そういうイメージは誰もが持ちえるからだ。しかし、そのイメージとその国の人を決して決め付けてはいけない。何かを教える側に立つものだったら尚更だ。

L教授はそういう配慮に欠けていたのだろう。言った本人は軽いジョークのつもりでも留学生にとっては傷つきかねない。確かに他国や外国人の元来持っていたイメージを簡単に変えるのは難しいが、どの国も人を含めて時代が変わってきているという事を認識する必要があると思う。

かくして僕はクラスに参加するのを止めた。L教授には「大学院探しやその手続きで忙しくなるので行けません」とメールを打った。セメスターの後半は歴史のことばかり講義をしていたらしい。ただ変だなと思ったのが1549年にフランシスコ・ザビエルによって日本に広まったキリスト教についての講義が無かった事。僕自身授業に行ってないから本当かどうかは知らないが、もし本当だったらおかしい。少なくともキリスト教は日本の歴史に大いに影響を
及ぼした宗教の一つだし、今現在でも日本全国に信徒がいっぱいいる。

さて話が少し逸れてしまったが、僕が言いたいのはこのL教授への批判だけではなく、もし何かを教える立場(特に外国に関する特定の事柄や言語などを教える場合)にあるのなら決して先入観を持ってはいけないということだ。何度も書いたが若者中心のポップカルチャーなどはすぐ変わるし、国によっては体制も常識も変わる事もある。それらの変化に柔軟に対応せず、自分の教えている内容だけが正しいと思い込んでしまうと(その国出身の)生徒と思わぬ誤解や問題を生む事になりかねない。

それは、僕が今目指している留学生アドバイザーなどの外国人と関わってくる仕事にも関連する事だ。結局大事なのはあらゆる事情を受け入れる事ができる柔軟性だという事が分かった。もし、アドバイザーなどの職に就くことになったら自分の知識に固執せず、意見や事実を色々聞いてから判断を下そうと思う。