ここでは2003年に連載していたコラムの傑作選を紹介致します。

第6回 映画の原題と邦題 2003年5月22日

先セメスター(学期)、映画のクラスを取っていて、テストで点が取れない箇所があった。監督の名前、映画用語、エッセーなどは問題なかったのだが、どうしても映画の名前を答える問題が取れなかった。なぜか?それは日本での名前と原題がまったく違うからである。

日本ではアメリカの映画が数多く放映されている。しかし、その中で一番おかしいと思うのが、原題から邦題への転換である。原題をそのまま訳せばいいのだが、中には全く違うタイトルをつけている映画もある。

改題のパターンはいくつかあって、
1)「原題をそのまま直訳(もしくはほとんど変えないで)して日本語にしたもの」、
2)「原題を訳さず日本語独自のタイトルをつけたもの」
3)「英語のタイトルだが、実際は違うタイトルのもの」
4)「原題と共に日本語の副題が付いてるもの」がある。

1)はまだいい。Gone with the Wind (風とともに去りぬ)、Beauty and Beast (美女と野獣) などがこれに当てはまる。英語を多少知っていれば、特に問題はないと思う。

2)になると、ちょっとややこしくなる。例えば、
ア)A League of Their Own
イ)Dead Poet Society
ウ)Mr. Holland’s Opus

どれも有名な映画である。しかし邦題はそれぞれ、ア)は「プリティーリーグ」、イ)は、「今を生きる」、ウ)は「陽のあたる教室」。タイトルを聞けば「ああ、あの映画か・・・。」で済むのだが、原題(もしくは邦題)しか知らないと、話がかみ合わない場合がある。実は前に Shawshank Redemption を某レンタルビデオ店に借りに行って、原題しか知らなかった僕は邦題を知らず、わざわざ調べてもらって(結構時間かかった)借りたことがある。因みに邦題は「ショーシャンクの空に」。これぐらいの改題だったらまだいいが、先にあげた3つの映画は全く違う題になっている。これでは、もしアメリカ人がこれらの映画を見たいと思っても、スムーズに借りられない気がする。

3)はもっとタチが悪い。何故かというと英語の言葉なのに、現地(アメリカ)では全く通じないのである。セメスターが無事に終わり、5月13~19日までインディアナ州に住む友達の家に遊びに行った。友達がレンタルビデオ店に連れて行ってくれた時、僕はかねてから見たかった「オールドルーキー」を借りたかった。実話を元にした野球の映画である。しかし、「オールドルーキー」タイトルは一見英語なのだが、全然店員は分からないのである。実は原題は「The Rookie」で、「オールド」なんて言葉はどこにも付いてないのである。多分、日本の配給会社が映画内容を連想させやすいように「オールド」という言葉を付けたと思うのだが、僕みたいにアメリカに住んでいる日本人にはいい迷惑である。

4)が一番助かる。 例えば「October Sky ~遠い空の向こうに~」みたいにどっちも書いてあれば、見つけやすい。これが「遠い空の向こうに」だけだったら何の映画か分からなくなる(この場合もちろん2)に分類される)。映画は内容やキャスティングも大事だが、原題はもっと大事だと思う。題名があって、映画は初めて存在するのだから、原題をおろそかにしないで欲しいと思う。

冒頭に書いた映画のクラスでは、映画をみてみんなで話し合うというのが基本的な授業スタイルである。ある日、黒澤明についてクラスで話題になった。その中で「七人の侍」が好きだという生徒が居た。アメリカでのタイトルは「The Seven Samurais」。日本語をそのまま英語にしただけである。しかしこの映画をヒントにした映画、「荒野の七人」は向こうでは「Magnificent Seven」。映画の存在を知っていたのに、原題を答えられない悔しい思いをまたしたのである。

アメリカ人は外国の映画はもちろん英語に直すのだが、短いタイトルが好きらしい。例えば2001年に大ヒットした「千と千尋の神隠し」は向こうでは「Spirited Away(=神隠し)」とシンプルなタイトルである。日本みたいに訳の分からないタイトルは付けない。もちろん全て良いタイトルを付けているとは限らず、中には日本みたいに全然違うタイトルをつける場合もあるが、日本みたいに極端に例が多いわけではない。

余談だが、宮崎アニメはアメリカでは人気があって、有名な映画ではそれぞれ

Nausicaa of the Valley of the Winds (風の谷のナウシカ)
-Laputa- Castle in the Sky  (天空の城ラピュタ)
My Neighbor Totoro (となりのトトロ)
Kiki’s Delivery Service (魔女の宅急便)

というタイトルが付いている。どれも映画からかけ離れていないタイトルだと思う。

日本もアメリカを見習ってシンプルなタイトルに、とは言わない。だけど、日本独自のタイトルをつける場合には原題を併記してもらいたい気がする。そうすれば、映画をわざわざ探す手間も省けるし、タイトルを見ただけで「あ~こういう映画なんだ~。」と思うこともできる。

これからもきっと話題作が多く日本にやってくると思う。英語と日本語の言葉の違いがあるのは仕方ないが、それらの映画にはもっと良識のあるタイトルをつけて貰いたい。決して原題と区別がつかないような名前にしないで欲しい。タイトルは映画の顔なのだから・・・。

 第7回 魅力あるテスト 2003年6月12日

ちょっと前の話だが、新聞にこんな記事が載っていた。「中学校の音楽の教科書に宇多田ヒカルや浜崎あゆみの歌を採用。」なるほど・・・。確かに人気のある宇多田ヒカルや浜崎あゆみの歌を教科書に載せれば生徒も親しみやすくなるだろう。これがゆとり教育の一環だと言うのならそれはそれでいい。別に、文部省唱歌や歌曲こそが教科書に載せるべき歌だ、とも言わない。僕が言いたいのは 別にこういう歌を載せなくても、もっと音楽の授業の楽しみ方があると思う。ここでは僕の中学時代、音楽の授業の中で特に印象深かった事を書いてみたい。

約9年前、僕が中学2年(C組)の時、新しい音楽の先生がやってきた。Mという先生で、外見から言うと音楽の先生と言うより、元ヤンみたいな人だった( ̄□ ̄;)。しかし明るい先生で、学校の音楽の授業も変わった。その先生は教科書をあまり使わず、ビデオでオーケストラや音楽関係の番組、映画などを見せたりしていた。また、歌も唱歌から合唱曲まで幅広く扱った。・・・と、ここまでは他の学校にもいそうな先生なのだが、ある日、M先生は変わったテストをした。それは歌のテストである。みんなの前で課題の歌を歌うのだったら、他の先生もしていると思う。しかし、僕たちのテストは「何を歌ってもいい」というものだった。もちろん歌が苦手な人は、校歌を歌ってもいい、という応急処置(?)もあった。テストの順番は出席簿のあいうえお順、生徒は前もって1週間ほどの準備期間がもらえた。そして、テスト当日、音楽室内は異様に盛り上がっていた。なんせ何を歌ってもいいのである。これはもうテストというよりカラオケ大会(しかし校歌以外の歌は先生の伴奏はナシ、よってCDやテープなどは持参可)であった。

このテストで今でも印象に残る場面がある。自分の得意なカラオケの持ち歌を次々と披露するのは圧倒的に女子が多かった。男子の大半は歌が嫌いなのか、面倒くさいのか分からなかったが、校歌を選んだ人が多かった。でも、そんな事は関係なく、笑いや歓声につつまれながら、テストが進んでいった。そして、Iさんがキャンディーズの「年下の男の子」を歌った時、盛り上がりは最高潮になった。しかし彼女の後に歌う、K君が歌おうとしていた歌は校歌だった。でも、彼は席を立ちこう言った。「え~、みなさん、盛りがっているところを恐縮でございますが、私○○(彼の名前)、校歌を歌わせて頂きます!」彼にとって、クラスの雰囲気を壊すまいという精一杯の配慮だったと思うのだが、この彼の発言のタイミングが非常に良かった。ただの校歌なのに、誰かがポップスを歌う時以上に盛り上がった。

学校の勉強で大切なのは、ただ教えられるのではなく、こうした授業の工夫だと思う。僕を含めてもちろん他のみんなもこんな楽しいテストを受けたことがなかった。中間、期末だけで生徒の能力を見るのではなく、カラオケ大会(当時はこう呼んではいなかったが・・・)で生徒の新たな一面を見ようとするM先生は偉いと思った。

僕はこのテストで後悔していることがある。当時、僕はポップスなど全く興味がなく、知っている歌といえば学校で習うような唱歌や合唱曲、テレビで放送されていたアニメの歌だけだった。アニメの歌と言っても、そんなに知っていた訳ではなかったので、結局親の勧めで「小さな木の実」を歌った。みんながポップスなどを歌っていたので、さすがに歌い出しはみんなに笑われた。今だったらきっと違う歌を選んでいたと思う。

それから1年後、僕はクラス替えで3年B組になった。その年のクラス対抗合唱コンクールでは、「大きな古時計」を歌い見事優勝した。因みにA組は「翼を広げて」(DEEN)で、C組は「California Dreamin’」を歌った。規定の枠にはめないM先生の指導は合唱の選曲まで変えたような気がした。

音楽は主要5教科(国、数、英、理、社)と違い、副教科(音、体、美、技・家(技術家庭)なのでよほど好きでない限り、真剣にやらない人が多いがM先生は独自の授業スタイルで音楽という教科を楽しませてくれた。

宇多田ヒカルや浜崎あゆみが教科書になくても、先生の工夫や努力次第で音楽の授業は十分楽しめる。これは他教科でも一緒である。一体、何を考えて教科書会社はこれらの歌を選曲したのか理解に苦しむが、結局のところ「時代が変わってきたから」と教科書の内容を削減したり、新しい物(特に若者に人気があるもの)を教材として取入れただけである。それで生徒は興味が沸くかもしれないが、後には何も残らないような気がする。なぜなら流行りというものは、すぐに変わっていくからである。

今、生徒たちに大事なのは教科書の内容や、ゆとり教育ではなく、魅力があって個性のある先生の存在なのではないだろうか?
M先生のような教師が一人でもいれば、たとえどんな教科でも生徒たちの心に残る授業の思い出となるだろう。

第8回 語学を学ぶ 2003年7月27日

この夏、イタリア語を学びに行った。基礎も全く知らずに行ったので、何にも分からずかなり苦労した。何を言っているか理解できたとしても、答えられないことが多々あった。こういう時に大事なのが文法。予め日本で、文法と会話の本を買って行ったのだったが、内容はさっぱりだった。理由は簡単。日本語での説明が全く分からなかったのである。語学に文法は付き物、もちろん文を書くにも、言葉に出すのも文法は必須である。しかし、日本では、語学を教える=文法を教える という式が確立されている。僕が言いたいのは、語学を学ぶのになぜ色々な名前を付けるのかということだ。もちろん分かりやすく解明する為だと思うのだが、僕にとっては分かりにくい。例えば、イタリアで知り合った日本人の女の子二人の会話で、

A「この単語って自動詞でしょ?」
B「他動詞じゃない?これが補語でしょ。そしてこれが所有格だから・・・」

僕にとって、既に未知の世界の会話である。恥ずかしながら、僕の文法のレベルは高くない。文章の構成を褒められることはあっても、文法で褒められることはあまりない。この会話を聞いても、「自動詞?」「他動詞?」「補語?」「所有格?」・・・・・イタリアに来てまでそういう日本で習う文法用語を持ち込んで理解しようとするのは僕にはできない。因みに僕はそういう用語を考えないで、基本的な形だけで(例えば主語や動詞や名詞)構文を覚えていった。

英語をやっていて「この単語は再帰代名詞になる」と当時通っていた日本の高校で教えられた。もちろん何の事か分からず、先生も口で言っただけなので、自分のノートには「差益代名詞」と書いて、「損得に関することを説明する代名詞」と一時期そう思い込んでいた。今はさすがに「再帰代名詞」という言葉も字も書けるが、「意味は?」って聞かれたら多分うまく説明できないだろう。

日本の語学の教え方って何でこんな風にしかできないのだろ? と思うのは今に始まったことではない。昔からである。そういう文法の複雑な名前(日本語の)を覚えたりしなければならないのは、日本の英語の授業だけである。なぜなら受験のための英語だからである。僕の在籍したスイスのアメリカンスクールには英語が第一言語じゃない生徒の為に英語を一から教える「ESL」というクラスがあった。ESLは English as a Second Languageの略で文字通り英語の基礎を教えるクラスである。もちろん文法も教えるが日本みたいに文を分解して変な名前など付けない。せいぜい、「主語(Subject)」と「動詞(Verb)」を中心に学び始めて、必要だったら「形容詞」、「副詞」を授業に盛り込む程度である(学校によって違うが、少なくとも最初の文法用語はその程度)。

TOEFLという外国人の英語能力を計るテストがある。日本人がアメリカの大学に行くためには必須のテストで、リスニング、文法、リーディングの3項目からなるテストである。僕が受けていた時はペーパー試験だったが、今はコンピュータで受けられる。日本人の点はリスニングを除いてそんなに悪くないらしい。まあ高校から文法漬けになれば、そんなに難しく感じるテストではないかもしれない。しかし、僕は英語を会話から始めたので、どうしても点が取れなかった。周りの日本人のスコアは僕より断然上だった。文法、リーディングがいつも散々だったからだと思う。

今いる学校は編入で入ったので幸いTOEFLは必要なかったが、もしTOEFLが必須だったら落とされていたかもしれない。なぜなら、新入生として僕の学校に入ろうとした日本人が僕より上のスコアで落とされたからである。

大分脱線してしまったが、ようするに僕が言いたいのは英語(もしくは他の言語)を学ぶのに日本の高校で習うような複雑な文法の構造など必要ない。海外でできた友達と英語で会話をしたかったら中学3年間の英語文法だけで充分である。別に習い始めてすぐに専門分野的な会話をするわけではないから、必要最低限の文法さえやっておけば、日常会話には何の問題もない。どんなに基本的な文法であっても予め形が決まっている構造は決して変わらないのだから、もっと幅広い会話をしたかったら単語力を身につけるだけで色んな会話ができるようになる。

なぜ、英語を学ぶのか?海外留学などを考えていないほとんどの生徒の答えは多分、「受験に必要だから」や「受験科目だから」だと思う。不幸にも戦後、日本が力を入れたのは国際化を視野に入れた英語教育と名を打った ただの受験に受かるための英語教育である。これではいくら文章が書けても読めても、話せないんじゃ何も意味が無い気がする。ついでに言ってしまえば、読み書きしか教えないから英語嫌いが増えるのも当然なのである。

日本は海外の英語の教え方を参考にしなければいけないと思う。これは僕の中学の時の話だが、2年生の時 英語のMという先生が(前回に出てきた音楽の先生とは違う先生)赴任してきた。彼女はアメリカでの生活経験があり、アメリカの某有名大学に行かず、日本の女子大を出た人であった。もちろん英語の発音はすごくうまかった。彼女もまた日本での英語の文法の言葉が分からず苦労した一人である。彼女がある日こんな話をした。

「私ね、大学に行くのに全国模試を受けたんだけど、能動態と受動態の意味が分からなくて 志望校へは無理って結果がきちゃった。」

今だったら彼女が何を言いたいか分かるような気がする。なぜなら、同じ苦労を僕が今回イタリアで味わったのだから・・・。

彼女の教え方はやはり他の先生と違っていた。僕がこの時から約1年後に経験する英語の授業そのものだったのである。特に彼女のテストにはびっくりした。2年生の中間テストに比較級の問題があった。比較級とは例えば、「AがBより大きい」というような比較を表す文章のことである。普通の先生だったら、教科書をベースにしてテストを作るかもしれないのだが、彼女はその時に行われた相撲の番付と力士の名前で比較級を作る問題だった。例えば、

「若花田(当時)は貴花田より年上だ」とか「小錦は霧島より大きい」

そんな感じの問題が多かった。中にはその比較級を使って番付に対する簡単な意見を述べる問題もあった。よって、教科書の内容をそのままにした問題は一問も無かった。すごく独創的なテストだったが、習った知識の反復だけがテストだと思っているのが日本人である。日本のテストでは意見を求めず、英語だったら文法の型、数学だったら公式の活用を要求するテストが多い。しかし、彼女のテストは明らかに違った。その年の中間試験、主要5教科のうち英語の平均点だけがすごく低かった。当然、受験が大事と豪語する親御さんからは、

「なんなんだ!この難しいテストは!」「教科書と全然違うじゃないか!!」

などと非難の声が上がった。M先生にしても何で自分が槍玉に挙げられるかが分からなかっただろう。次回のテストからは渋々教科書をベースにした平凡なテストに代えざるをえなくなった。きっと、M先生は「勉強してないから点が取れないんでしょ」と心底思っただろう。親や生徒から見れば、「してやった!」と思っているかもしれない。しかしこうしたM先生のようなテストは外国では当たり前である。教科書の内容がテストにそのまま出るような英語はただの受験対策の準備の為のテストとしか言いようが無い。

語学で文法は大事である。骨組みが分からなかったら、何を習っても無意味だからである。しかし、あれだけ細かく一つ一つのフレーズに名前を付けは余計難しくなるし、イヤになってくる。さっきも言ったが英語をもし本当に話せるようになりたい人は、中学3年間の教科書を見直しておけば、きっとそこから語彙が広がって、会話もできるようになると思う。他言語ならば、日本語の説明(直接代名詞は動詞の直接的な目的語でおおむね日本語の「~を」にあたる・・・などの分かりやすい説明)が充実している本を買って始めるのがベストだと思う。もちろん最終的にどういう風に勉強するかは個人によるが、ここは日本の学校教育と違う習い方で言語を習ってみてはどうでしょうか?

第9回 忘れえぬ人1ーエミールー 2003年8月25日

誰にでも自分の人生に大きな影響を与えた人物がいると思う。その中で特に忘れられない二人を紹介したいと思う。1回目の今回は高校留学中に出会ったエミールについて書きたいと思う。

僕は1996年にスイスのレザン・アメリカンスクール(以下LAS)に入学した。僕にとっては初めて家族から離れて暮らす経験だった。この学校は全寮制で、世界約50カ国から300人ほどの生徒が集まっている。僕の初めてのルームメートはジョセフという台湾人だった。当時僕の英語力は悲惨と言うより無いに等しいもので、まともな会話なんてできないレベルだった。よって、金持ちで超自分勝手なジョセフとは意思の疎通がうまくいくはずもなく、彼に対するストレスばっかり貯まっていった。しかし人間不思議なもので、しばらくすると自分の言いたいことが言えるレベルまで達し、ついには口喧嘩(?)がある程度できるまで英語力が上がっていった。それはさておき、僕はLASに入学前に決めていたことがあった。それは「LASに入学したら下手でもいいからできるだけたくさんの英語を話す努力をし、世界中から集まる学生と友達になろう」だった。それなのにいざ留学生活が始まってみると、自分の身の回りのことで手一杯でコミュニケーションの難しさを身をもって痛感し、ついつい無口になってしまう自分に失望する毎日を送っていた。

そんな時、二つ隣の部屋のトルコ人の学生が笑顔で話しかけてきた。これが僕とエミールの初めての出会いだった。まだ初めての学校生活が始まっ1週間も経っていなかった思う。彼は社交性や積極性の欠ける僕にとってはありがたい存在だった。

日本人の学生の中には日本人同士で集うことを好む人もいるが、英語を思うように喋れなかった僕もそういう仲間に入りかけていた。エミールはそんな僕を救ってくれたのだった。

エミールと出会ってから、いつも英語を話し、英語で考える生活が始まり、日本人グループにも入ることもなくなった。誰にでも気軽に英語で話しかけるようになり、自然と友達も増えた。数週間後には朝のミーティング(Assembly)で先生の言うことが(全部ではないが)理解できるようになった。エミールは日本にも興味を持ってくれ、日本に関するさまざまな質問をしてきた。そのおかげで僕は英語で日本のことを説明する訓練をさせてもらったようなもので、英会話の上達につながった。2年目にはエミールとルームメートになり、僕らは更に親しくなった。

もちろんの事だが、彼のライフスタイルは僕と違う。しかし僕たちはそれらを尊重しあう事ができた。LAS在学中エミールに助けられた回数は数え切れない。彼を通して多くのトルコ人や他の国の人たちとの出会いもあった。もしエミールに会うこともなく、あのまま日本人とだけつき合っていたとしたら、僕の留学生活はどれほど意味のないものになっていたことだろうか?

僕たちが99年にLASを卒業し、彼はジュネーブの大学へ、僕はカルフォルニアの大学に進学した。お互い離れてしまったが、幸いメールやメッセンジャーなどを持っていたので連絡を取り合うことができた。人の運命とは分からないもので、2年後の2001年、エミールは突然僕が在籍していた大学に編入してきた。僕らはそれから約1年またLASにいた時と同じようにいつも行動するようになった。まさかアメリカでエミールと会えるとは思わなかったが、僕にとってはすごく良い思い出ができた。

今現在、僕はウィスコンシン州、エミールはフロリダ州の大学に在籍している。でも、僕たちは信じていることが一つある。
またいつかどこかで再会するであろうと・・・。

追記:
この文章はある英語の先生に提出したEssayを日本語訳にしたものです。

第10回 忘れえぬ人2ーランダルー 2003年9月18日

前回のコラムで僕はラストにこう書いた。
「この文章はある英語の先生に提出したEssayを日本語訳にしたものです。」
今回はそのある先生、ランダル・マクレア(以下ランダル)について書いてみたいと思う。

ランダルは2000年の秋のセメスター(学期)に僕が当時在籍していたカルフォルニアの2年制大学に赴任してきた。彼の教える教科はEnglish。どこの学校でもそうだが、初めての先生のクラスにサインアップするのは一種の賭けである。なぜなら、その先生の情報が全くないからである。アメリカの大学では先生によって、宿題やプロジェクトの量が大きく違う。同じ名前のクラスでも簡単な先生もいれば、死ぬほど難しい先生もいる。他教科よりレベルが高いEnglishのクラスなら尚更である。しかし、僕はそのランダルという先生以外にスケジュールにフィットする先生がいなかった。いや実はもう一人いたのだが、厳しい先生だったし、授業時間が夕方遅かった。仕方なく僕はそのランダルという新しい先生のクラスで登録をし、日本で休みを迎えた。そして夏休みの後の最初のEnglishのクラス、これが初めてのランダルと僕との出会いだった。

若い先生だった。どうみても20代で、僕たち生徒より少しふけた感じで気の良さそうな人だった。そして始まった彼のクラスは明らかに他のEnglishの先生より違っていた。

最初のクラス、彼はいきなり映画「今を生きる」(Dead Poet Society)のテープをかけ、生徒に「俺はこういう授業をやってみたい!」と言い出した。そして次の授業、僕たちを戸外へ連れ出しテキストブックに書いてある事のディスカッション・・・のはずが、いつの間にか雑談に変わっていた。それはこの日の授業に限らず、いつもこんな感じだった。

難しい教科をいかに面白く、親しみやすく教えるかを彼は知っていた。Englishのクラスといえばリーディング、Essay漬けのクラスが多く、よほどトピックが面白くない限り(もしくはそれが専攻でない限り)、まず生徒のお荷物的なクラスと位置づける人が多い。僕もその一人だった。しかし、彼のお陰でこれから先の英語のクラスのスケジュールが立てやすくなった。ようするに、僕はそれからの必修のEnglishのクラスを全部彼のクラスにした。

何回もその先生のクラスを取り続けて、名前を覚えてもらい、お互い話す時間が多くなると、例え先生と生徒の関係であってもある程度親しくなる。彼のクラスを取り始めて3セメスター目の夏のセメスター。僕はもちろん彼のクラスを取った。この時僕は一緒に「アメリカ近代史(南北戦争~現代)」クラスを取っていたので今までで一番忙しい夏のセメスターになると覚悟していた。僕はヒストリーが比較的好きだが、英語でそれを習うのはまた別である。1回、「20世紀のヨーロッパ史」を取って挫折した。「好きな教科=成績が取りやすい」はアメリカの大学で通用しない事を身をもってこの時 実感した。でも通常より短いセメスターで取った方がいいと思っていたので、思い切ってランダルのクラスと並行して取った。

さすがに3セメスター目というのは生徒と先生という距離を埋めるのに充分だったらしい。このクラスで僕は今までに一番と言ってもいいほど融通がきいた。例えば、ランダルがEssayを宿題にしようとした時、僕は彼に「明日ヒストリーのテストがある」と言ったら、彼はみんなに「明日ごーちゃんテストらしいから、この宿題来週までな!」。また他の日には「宿題の期限、ごーちゃんが決めていいぞ!」という時もあった。

彼は僕にとって最高の先生だった。日本の学校でこれだけ親しく、しかも個人の意見を受け入れてくれる先生が何人いるだろうか?もちろん、ランダルは色々と僕を優遇してくれたが特別扱いはしなかった。授業も楽しかった。僕の友達が何人か彼のクラスをその夏、初めて取ったがみんな
「ランダル最高!」と賞賛してくれた。

日本では、今先生の指導力不足が取りざたされる事があるが、それは単に先生が昔のままの授業スタイルで時代に合わせて変わろうとしていないからではないか?先生と言うのは教える立場である。しかしだからと言って生徒に授業だけしたり、一方的に意見を言ったりするだけの職業ではないと思う。ランダルは違った。彼は宿題のヘルプはもちろん、2年制の大学卒業後の進路まで助けてくれた。

アメリカの大学は生徒一人一人にアドバイザーといって先生がクラススケジュールや進学の助言などしてくれる人がいる。ランダルは僕のアドバイザーではなかったが、「どこか良い編入先はないか?」と相談を持ちかけると、親身になって話を聞いてくれ大学のリストを持ってきてくれた。出す学校が決まるとその学校をアプライ(出願)するのに必要なEssayを手伝ってくれ、推薦書まで書いてくれた。すごく忙しいスケジュールの合間を縫って色々と手伝ってくれた事に今でも感謝している。今いる大学はウィスコンシン州の田舎にある大学だが、もしランダルがいなかったらずっと知らないまま別の大学に進学していただろう。

ランダルは僕が卒業した年、ミネソタ州の大学に移った。ウィスコンシン州とミネソタ州は隣同士なのでいつか会えるのを楽しみにしている。そういえば、彼からメールが来た時、最後に一言こう書いてあった。

“Your Friend, Randall”

彼らしい結び方だった。今日も彼は今いる学校で彼のスタイルを貫いているだろう。そう僕が彼のクラスを取っていたあの頃のように・・・。